カテゴリー「一の宮」の9件の記事

2010年2月 9日 (火)

坐摩神社(H21.5.20)

●坐摩神社(いかすりじんじゃ)(大阪市中央区久太郎町4渡辺3 )
坐摩神社は正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、通称は「ざまじんじゃ」とで呼ばれています。摂津国一の宮として、生井神(いくいのかみ)・福井神(さくいのかみ)・綱長井神(つながいのかみ)・波比岐神(はひきのかみ)・阿須波神(あすはのかみ)の五柱を祭神としてお祀りしています。5柱を総称して坐摩大神(いかすりのおおかみ)と申します。
生井神は、生々活発の井水の神。福井神は、幸井・栄井で、繁栄の井水の神。綱長井神は、釣瓶を吊す綱の長くして、深く清い井水の神。阿須波神と波比祇神は、竃神とも云われ、『古事記』によると、大歳神の子神。波比祇神は、屋敷神と考えられ、庭の神。阿須波神は、足場・足下の神。足の神であり、旅の神とも言われています。
平安時代の延喜式の摂津国西成郡唯一の大社で神功皇后が新羅より帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島の渡辺の地(現在当社の御旅所がある中央区石町付近:天満橋の西方)に奉祀されたのを始まりとされています。天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂城築城に当り、替地を命ぜられ、寛永年間(1624年~44年)に現在地に移転。現在の坐摩神社の旧地名を渡辺町というのも元の地名も併せて移したものであり、全国の渡辺・渡部姓の発祥の地とされています。明治5年、府社に列し、明治11年に官幣中社に列せられました。
「坐摩(いかすり)」の語源として諸説あるらしいですが、土地または居住地を守るという意味の「居所知(いかしり)」が転じたとのことです。

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▶大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい三鳥居

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▶手水舎はいまいちでした

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▶拝殿

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▶拝殿とご本殿。昭和11年官幣中社に列せられた際に造営された社殿は、先の大戦の空襲で焼失。現在の社殿は昭和34年に鉄筋コンクリート作りで、戦前の姿のまま再建されました

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▶明治天皇聖躅。明治元年の明治天皇大阪行幸の際、ご親拝されて相撲を天覧された

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▶稲荷神社(龍丸稲荷大明神・黒龍稲荷大明神 )。現在社殿工事中で、ご神体は坐摩神社本殿にいらっしゃるとのことです。

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▶陶器神社。嘉永年間(1848〜1853)愛宕山将軍地蔵を祀ると伝えられ、火防の神として崇敬が厚く、陶器商人からは守護神と崇められていました。

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▶陶器神社(大陶祇神・迦具突智神)。昭和46年再建。
この神社は戦前は北は筋違橋から南は四ツ橋迄の両側に二百数十店もの陶器店が軒を並べ、戦後は西横堀川に再建された陶器問屋の守護神といわれ、当初は西区靱南通一丁目にあったが、明治40年、市電敷設の道路拡張のため、現在の地に移転されました

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▶現在社殿工事中で、ご神体は坐摩神社本殿にいらっしゃるとのことです。

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▶陶器神社社殿両脇の灯篭は清水焼

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▶皇太子殿下ご成婚奉祝記念の燈籠。これも陶器で作られています

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▶招霊の木

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▶神倉でしょうか?

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▶禊所。境内に大阪府神社庁があり、神社庁のビルが当社の社務所を兼ねています。神官の禊ぎの建物が本殿脇に設けられています

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▶大江神社(神功皇后・應神天皇・武内宿禰)

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▶繊維神社(天羽槌雄命・天棚機姫命)

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▶大国主神社(大國主神・事代主神・少彦名神)

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▶天満宮(菅原道眞)

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▶相殿神社(春日・住吉・大神受美・猿田彦・大宮比賣・多賀・天御中主・産靈・直比・諏訪・事平・大歳)

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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2010年2月 3日 (水)

熊野大社(H21.4.21)

●熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)
出雲国には一之宮が二つ存在します。出雲国西寄りの旧大社町にある出雲大社と東寄りの旧八雲村にある熊野大社です。熊野大社の創建は神代で、初見は「日本書紀」(720)の斉明天皇5年(659)に「出雲國造を厳神の宮をつくらしむ」との記載があります。「出雲国風土記」(733)の熊野山の条項に「熊野大神の社坐す」とあり、当時は熊野山(現在の天狗山)に鎮座していたことがわかります。「延喜式神名帳」(927)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも称され、古来、杵築大社(出雲大社)と並んで出雲の国の大社として鄭重な扱いをうけました。朝廷のご尊祟が極めて篤く、仁壽元年(851)に従三位を、貞観9年(867)に正二位の神階を授与された。中世の頃に熊野山から麓に移る。また、上の宮、下の宮の二社に分かれ奉仕されるようになり、江戸末期まで上の宮には熊野三社権現、下の宮は伊勢宮とも呼ばれていました。殖産興業・招福縁結・厄除の大神として衆庶の信仰が深い。明治4年(1871)国幣中社、大正5年(1916)国幣大社に進列された。しかし、社号は明治の神社制度改正で大社から神社となってしまい、大社号の復活が望まれて久しかった。が、昭和53年(1978)の昭和戊午遷宮で熊野大社に復活しました。昭和53年の戊午遷宮を機に本殿をはじめ諸社殿、境内が一新されました。
古来特に出雲大社との関係が深く、出雲大社の祭祀は熊野大社の「神聖の火(熊野大神の霊)」、燧臼燧杵の神器を拝載する事によってはじまるとされ、出雲大社宮司(出雲國造)の新任時の霊継式(火継)、また年々の当社の鑽火祭に於いて新しいその神器が授与されます。
10月に行われる鑚火祭の亀太夫神事では出雲大社の神職が平身低頭して熊野大社の社人亀太夫から古伝新嘗祭で用いる神器を授けてもらいます。古来からの両大社のつながりの深さがわかる神事です。火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれています。

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▶一の鳥居

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▶一の鳥居を入ったところの狛犬

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▶二の鳥居

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▶「上の宮」跡へは時間がなくて、行けませんでした

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▶八雲橋から意宇川を望む

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▶三の鳥居

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▶大きな注連縄を張った随神門

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▶拝殿。出雲大社と同様に大きな注連縄の拝殿が神域中央にどっしりと構えており、その奥に大社造りのご本殿の屋根が見えます。伊邪那伎日真名子 加夫呂伎 熊野大神櫛御気野命とという長い神名を持つスサノヲノミコトをお祀りしています

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▶拝殿の内部

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▶稲田神社。ご祭神は櫛名田比売命、足名椎命、手名椎命他六社合祀

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▶伊邪那美神社。ご祭神は伊邪那美命他十九社合祀。元々は上の宮の社殿

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▶舞殿。もともと拝殿だった建物を昭和53年に移築したものらしいです

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▶「八雲立つ~」の和歌の歌碑

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▶鑽火殿(さんかでん)。大正4年の造営。
器の火鑽臼(ひきりうす)と火鑽杵(ひきりきね)を保管する建物。燧臼・燧杵は、古代の人々が火を熾す際に使った道具で、古くからのしきたりを大切にする神社の祭りや神事では、この道具を神聖な神火を鑚り出す方法として今も使用しています。
熊野神社では毎年10月、燧臼・燧杵を用いた特殊な神事が行われます。鑽火祭(きりびまつり)と呼ばれている神事で、この日は、出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する燧臼、燧杵を受け取るために熊野大社を訪れます。この神器を授け渡す儀が「亀太夫神事」と呼ばれるもので、出雲大社が納める餅の出来ばえについて苦情を口やかましく言い立てる変わった行事で、その後に、出雲大社の宮司が神前に進み出て、神歌と琴板の楽に合わせて「百番の舞」という神舞を舞い、舞が終わると宮司が退出し、神事が終わります。
出雲大社の奉祀する宮司(国造)が代替りするときも、熊野大社に参り、熊野の神から拝戴の火切臼と火切杵とで聖火を切り出し,この聖火で料理した神饌を熊野の神に奉り,自らもこれを口にします。また、拝戴の神火はもち帰り、斎火殿(おひどころ)に奉安して国造一生の間絶やすことがありません。国造の代替りは火の継承であるから,神火の拝戴を火継といいます。こうした神火相続の儀は、出雲大社の宮司(國造)が現在も古式のまま継承しています。

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▶稲荷神社

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▶荒神社

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▶荒神社横の御神水。非常においしいお水でした

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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2010年1月31日 (日)

出雲大社(H21.4.20)

●出雲大社(いずもおおやしろ)(島根県出雲市大社町杵築東195)
一般には「いずもたいしゃ」と呼ばれていますが、正式名称は「いずもおおやしろ」と読みます。大社の総称社として知られる旧官幣大社。『延書式』に名神大社として唯一大社に列し、出雲国一の宮として朝廷の崇敬が厚く、神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。
縁結びの神様「大国主大神(おおくにぬしのみこと)」で有名な出雲大社。毎年神在月の頃になると、日本各地の神々が出雲大社に集まり、男女の縁だけでなく、その他の色々な”縁”を結ぶ「神議り(かむばかり・会議)」を行うそうです。そのため、出雲地方では「神無月」のことを「神在月」といいます。毎年多くの参拝客が訪れ、縁結びの地として人気のスポットです。
創祀は『古事記』『日本書紀』などによると、大国主大神は素箋鳴尊の子(6世の孫とも)で、葦原中国の国造りにあたり、やがて天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨のとき、国土を譲って出雲国多芸志の浜に身を隠した。大国主大神の国譲りを喜んだ天照大神は、天日隅宮を築き、その子の天穂日命を奉仕させたのが起こりといいます。いまも天穂日命を祖とする出雲国造家が、連綿として祭祀を継承しています。
「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。
御本殿は「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式で建てられており、国宝に指定されている大変貴重なものです。高さは約24メートルあり、日本書紀(720年)や出雲国風土記(733年)にも記述があります。社伝によると、太古の出雲大社の本殿の高さは97m、中古には現在の2倍にあたる48mあったと言われています。平成12年には、その社伝を裏付けるかのような、直径3mもの巨大な柱根「宇豆柱(うずばしら)」が境内で発見されました。神楽殿には、日本一の「大注連縄」(重さ約5t)があり、出雲大社の参道入口から南へ600mほど下ると、日本一の大鳥居があります。八足門(やつあしもん)や楼門など21棟と銅鳥居1基が国の重要文化財。

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▶一畑電鉄出雲大社前駅

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▶出雲大社の駅とは思えない大胆なデザインなのに、異国情緒あるレトロ感がいい感じです。

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▶日本一の大鳥居。一の鳥居になります

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▶参道にある竹内まりやさんの実家の竹野屋さん

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▶二の鳥居

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▶緩やかな下り坂の参道

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▶祓社(はらいのやしろ)参拝する人をまずここで祓い清めます

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▶鳥居をくぐって一歩神域に足を踏み入れると、両脇から太い枝を張った樹齢何百年という老松の参道が長々と続きます。直立している幹などほとんどなく、幾分傾き加減の巨木が立ち並ぶ参道も趣があっていい感じです。松並木が終わるあたりで左右を見ると銅像が見えます

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▶大国主神と白兎

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▶大国主大神が幸魂(さきみたま) ・ 奇魂(くしみたま) を拝戴する場面「ムスビの御神像」。これが縁結びの由縁です

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▶皇后陛下の出雲大社に詣でての石碑「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず」
平成15年10月3日、天皇陛下・皇后陛下には出雲大社を御親拝あそばされ、皇后陛下が「出雲大社に詣でて」と御題されて「国譲り祀られましし大神の 奇しき御業を偲びて止まず」との御歌を賜われました。

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▶手水舎

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▶三の鳥居。寛文6年(1666)に毛利輝元の孫にあたる綱広が寄進した銅鳥居。漢文で銘が刻まれていて、その中に「・・・素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり・・・」とあり、祭神が素戔嗚尊と明言している不思議な一文で、出雲神話では、素戔嗚尊の神威力が高く受けとられていたことや大国主神が素戔嗚尊の直系の子孫にあたることから、祭神が混同された時代もあったのかも知れません

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▶昭和34年に再建された桧造りの美しい拝殿。大遷宮中の今は御仮殿になります。
出雲大社は「平成の大遷宮」の真っ最中。「大遷宮」とは本殿の造営、修理に伴い、修復が完了するまで大国主の大神様に仮の本殿となる仮殿に移っていただくことで、平成の大遷宮の場合は
・仮のお住いにお移りになる「仮殿遷座祭」 =平成20年4月20日
・仮のお住いから修復された本殿にお戻りになる「本殿遷座祭」=平成25年5月
出雲大社の大遷宮は厳密に何年毎というわけではなく、だいたい60年~70年おきに行われてきました

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▶出雲大社では、二拝四拍手一拝の作法で拝礼します。ほとんどの神社では二拍手が決まりのようなものですが、ここでは4回拍手します。社頭で2回おじぎをして、4回柏手を打ち、さらに一回おじぎをするのが出雲の作法です

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▶瑞垣の門・八足門。国宝の本殿は、拝殿の奥に瑞垣と玉垣に囲まれていて建っている。瑞垣の門を八足門という。普通は、ここから本殿を拝します。

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▶修復中のご本殿。昔の大遷宮は機械もなくどうやっていたのでしょうか?

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▶十九社(じゅうくしゃ)
本社の荒垣内、御本殿の東西に相対して鎮座で、それぞれ十九の扉がついています。出雲大社神在祭の期間、全国の神々がお泊りになる社です。旧暦10月10日の夕刻、出雲大社西方の稲佐の浜で全国の神々をお迎えして(神迎祭)から翌日11日から17日までの1週間(神在祭)は、この社の全ての扉が開かれ、おまつりがおこなわれます。今の御社殿は延享5年(1748)2月の御造替です。
我が国では、旧暦の10月を通常「神無月(かんなづき)」と呼んでいます。10月10日に全国の神々が出雲大社に集られ、10月11日から17日までいろいろな神議りを行わうため、出雲以外では神々が不在になるためで、出雲ではこの月を「神在月(かみありつき)」と呼びます。余談ですが、私のペンネームもこの神在月からいただきました

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▶摂社 氏社(うじのやしろ)本社の荒垣内、御本殿の西方に東面して鎮座する南北に並んだ二社です。北側の御社には天穂日命(あまほひのみこと)が祀られています。天穂日命は大国主神に国を譲るように朝廷から差し向けられた使者でしたが、大国主神に私淑(手本として慕い、尊敬し学ぶこと)してしまった神です。南側の御社には国造出雲臣宮向宿祢命(いずものおおみやむきのすくねのみこと)が祀られています。この国造は天穂日命の17世の神裔(孫)で、この時はじめて「出雲臣」の姓を賜ったといわれています。今の御社殿はいずれも延享5年(1748)5月の御造替です

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▶素鵞社(そがのやしろ)遙拝所
本社の荒垣内、御本殿の後、北の八雲山の麓に南面して鎮座で、御祭神は素箋鳴尊です。天照大神の弟神にあたられます。やがて出雲国に天降され、肥河上において八岐大蛇を退治されて人々をお助けになり、次いで奇稲田姫を御妻として大国主命をお生みになられました。その後大神に国づくりの大任をお授けになったことは、人々によく知られるところです。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。「平成の大遷宮」による瑞垣内諸社殿修理に伴い、遙拝所が設けられていました

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▶釜社(かまのやしろ)
本社の荒垣内、御本殿の東方に西面して鎮座。御祭神は宇迦之魂神です。この神様は、須佐之男命の孫にあたる神様で、食物を守る神様です。このあたり一帯の北山山地を宇迦山とも呼びますし、「宇迦」とは穀物を意味する古語といわれております。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。

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▶神楽殿
出雲大社では拝殿と神楽殿に巨大な注連縄の張られています。しかし、その張り方が普通の神社とはまったく逆になっています。日本では、古くから左(向かって右)の方が上位で尊いとしてきた。神社でも同じで、社殿から見て左側、すなわち参拝者から見て右側が上位であります。このため、一般の神社の注連縄を見ると、参拝者から見て向かって右側から綯い始め、向かって左側で綯い終わる。だが、出雲大社では正反対で、注連縄の綯い始めは向かって左となっている。作家の伊沢元彦氏は、その理由を「出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である」ためとしています

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▶神楽殿内部

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▶日章旗。この写真では全然大きく感じませんが、出雲大社の日の丸は、日本一大きい国旗なのです。国旗掲揚台の高さ47m。国旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgです。NHKの一日の放送終了時に映される国旗はここのを使っています。

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▶秋篠宮悠仁親王殿下ご誕生記念

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▶ご祭神不明

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▶神楽殿の裏。神楽殿のご本殿でしょうか?

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▶神楽殿の裏の鎮守社・天満宮の垣内の三社殿

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▶鎮守社・天満宮の垣内の二社殿

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▶鎮守社・天満宮

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▶境外摂社 神魂伊能知奴志神社(命主社)。神産巣日神をお祀りしています。
神産巣日神は、まだ伊邪那岐神と伊邪那美神が生まれるよりも前、高天原に最初に成った三柱の神のうちの一柱です。大国主神の危機を幾度も救い、国造りの支えとなりました。

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▶神魂伊能知奴志神社(命主社)の本殿のうしろから江戸時代初期に四本の青銅製利器と曲玉が出土したとされ、その場所には真名井遺跡との標識が立っていました。

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▶八大荒神社(仮の宮荒神社)
この神社は出雲大社の大鳥居前から日本海に抜ける29号線の北にある、奉納山公園の山麓に鎮座しています。
社号標には「仮の宮荒神社」とありましたが、鳥居と拝殿の額に「八大荒神社」とありました。この神社そのものについては何も説明がなかったので創建などについては分かりません。只、仮の宮は地区名であり、荒神様なので御祭神は素戔嗚命を祀っているものと思われます。奉納山は出雲大社へ奉納する経文を納めた所。

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▶境外摂社 大歳社

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▶国譲りにちなむ屏風岩。大国主神と建御雷神はこの岩の陰で国譲りについての話をしました

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▶境外摂社 上の宮(仮宮)。神在月に境内で「神在祭」が行われます。素戔嗚尊・八百万神

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▶境外末社 下の宮。天照大御神

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▶稲佐の浜と弁天島
国譲りの舞台となった浜です。建御雷神は十掬の剣を波頭に突き刺して、国を譲るか否かを問いました。また、旧暦10月10日の「神迎神事」はここで行われます。
島は弁天島です。出雲国風土記の国引き神話で、八束水臣津野命が出雲の国を大きくしようと他国の余った島を引っ張るのに使った綱が、弁天島になったとされています。引っ張ってきて繋ぎ合わせたのが杵築御埼(きねづきのみさき/現在の日御碕・ひのみさき)等です。

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▶北島国造館
出雲大社の境内を抜け、橋を渡ると北島国造館です。何故、同じ出雲大社にありながら、独立しているのだろうかと不思議でした。出雲大社の宮司の千家家と北島家はかっては同じ兄弟から別れ、同格、そして今は別の管理下であることを知りました。こじんまりとした気持の良い国造北島館境内です。北島国造館は,全国の出雲教(出雲大社,何々の国支社)の総本山と言うことらしいです。

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▶御神殿

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▶御三社 左より稲荷社、天穂日命社、荒神社

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▶天神社、心字池中之島に鎮座。後ろは亀尾の滝と呼ばれています。祭神 少名毘古那神

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▶天満宮

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▶相生の松

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▶JR大社駅(廃駅)。30年近く前、小学生の頃初めて友人と旅行したのが出雲大社で、この大社駅に夜行列車から降りたのをはっきりと覚えています。当時はまたJRではなく国鉄でした。30年近くぶりでホント懐かしく、このように当時のまま保存されているのを非常にうれしく感激しました。
このJR大社駅が開業したのは明治45年6月で、駅舎は大正13年の改築です。平成2年3月31日には大社線が廃止となったため、大社駅も共に廃駅となりました。

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▶鉄道の栄枯盛衰を象徴するような駅です。神社様式のなんて美しい駅舎なんだろうと見とれてしまいました。出雲大社を模したつくりです。平成16年に国の重要文化財に指定されました

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▶駅ではめずらしい出雲大社の大祭に遣わされるご皇室の勅使をもてなすための貴賓室や駅名標、出雲大社の大鳥居が見えるホームなどが当時のままに残されています。さらに、旧事務室は喫茶店として使われており、大正ロマンが味わえ往時をしのぶ事が出来ます

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▶昔は大勢の駅員さんが働いていた事でしょう。ちなみに全盛期(昭和47年)には一日の乗降客4000人、発着荷物180トンを誇りました

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▶展示されている機関車(D51型774号機)は昭和49年11月30日まで走っていました

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▶全盛期には出雲大社参詣用の団体専用列車を迎え入れていただけでなく、東京から大社まで急行が走り、大阪からは昭和60年まで急行「だいせん」が大社まで乗り入れていたのです。『お召し列車』の送迎、急行いずも号(大社~東京)・急行だいせん(大社~京都)などの直通運転をはじめ、戦後の最盛期には年間の団体臨時列車は280本を数えました。

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▶御朱印

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2010年1月23日 (土)

白山ヒメ神社(H21.4.14)

●白山比咩神社(石川県白山市三宮町ニ105-1)
白山ヒメ神社は遠く神代の昔霊峰白山を神体山として生きとし生けるものの「いのち」の祖神を仰ぎまつる白山ひめ大神を奉斎したことにはじまります。神祠の創建は崇神天皇の7年(約二千百年前)と伝えられております。
明治維新後は「下白山」を本社、「白山天嶺」を「奥宮」とし国幣中社として国家の殊遇を受けましたが 終戦後の今日では全国に三千有余を数える白山神社の総本社として「白山信仰」の中心をなしております。 家内安全・延命招福・五穀豊穣・大漁満足・商売繁盛・交通安全及び縁結びの守り神としていやちこ御神徳を仰がれております。927年に記された『延喜式』にも名社として挙げられています。古来「下白山(しもしらやま)」と呼ばれた本社は、霊峰白山の「まつりのにわ(祭事を行なう場所)」として設けられた白山本宮で、「加賀一ノ宮」として尊敬され、「白山(しらやま)さん」として多くの人々に親しまれている北陸鎮護の大社です。

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▶北陸鉄道加賀一の宮駅を下車して、スグに見える看板。表参道を行きます。車の人は北参道側に駐車場があるので、表参道からはあまり参拝されませんが、是非、表参道からの参拝をオススメします。

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▶白山比咩神社の一の鳥居と社号標

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▶せせらぎが聞こえる参道

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▶境内の入口まで緩やかで真っ直ぐな参道を進みます

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▶御神木の老スギ

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▶琵琶滝

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▶手水舎

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▶天皇陛下の御製の御歌

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▶二の鳥居

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▶三の鳥居。ここを過ぎると神門に出ます。

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▶神門手前の御神木。大ケヤキ

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▶神門

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▶神門前、荒御前神社。御祭神:荒御前大神・高日大神・日吉大神・住吉大神

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▶御社殿。手前に拝殿。その奥に御本殿

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▶白山奥宮遥拝所

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▶盤持石

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▶大正三四年って?どういうことなんでしょう?

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▶白山奥宮遥拝所横の階段を下りて、奥にある参集殿を過ぎると鳥居があります。

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▶手水舎(亀石)

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▶禊場。禁足のように思われましたので、遠くから写真だけ撮らせて頂きました。

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▶禊場の隣にたつ住吉社

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▶北参道側の手水舎。新しい感じがします。

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▶北参道側の手水舎近くの祠。ご祭神不明

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▶この霊水を頂きに来られる人が多いです

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▶北参道側の鳥居。手前が駐車場になっています。

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▶北参道側の鳥居前の穢れ清め所

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▶駐車場横の大権現。白山比咩神社と関係があるのかどうかわかりません。


全国約三千社の白山神社の本宮である白山比咩神社は、当初現鎮座地から北方1Kmの舟岡山山頂に鎮座。その後、応神天皇二十八年(293)手取川畔に遷り、さらに、元正天皇霊亀二年(716)、安久濤の森に遷座。旧社地は北陸鉄道加賀一ノ宮駅前の古宮址安久涛の森でありますが、文明12年(約530年前)の大火によって四十有余の堂塔が 悉く烏有に帰しましたので、その後末社三宮神社の境内である現在地を本宮鎮座の地と定めて今日に至っているのです。その後、文明十二年の大火で、末社三宮のあった当地へ遷座されました。
安久濤の森は、加賀一宮駅の横にあり、現在、古宮公園となっています。

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▶古宮公園内に祀られている水戸明神

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▶白山比咩神社の下が消されていてわからないですが、何らかの関係がありそうな石碑

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▶古宮公園から見た加賀一の宮駅

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▶平成21年11月1日で鶴来~加賀一の宮駅が廃止されるためこの光景を見るのも最後

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▶重厚感があって、趣のある駅舎

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▶歴史を感じさせる佇まい

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▶駅名標。存在だけで重みを感じさせます

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▶数ヶ月後には、永遠に列車が走ることがなくなります

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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伊雑宮(H21.4.13)

●伊雑宮(三重県志摩市磯部町上之郷)
伊雑宮(いざわのみや)は、皇大神宮別宮で、式内社・粟嶋坐伊射波神社二座の論社であり、志摩国一の宮でもあります。三重県志摩郡磯部町上之郷にご鎮座。天照坐皇大御神御魂をおまつりされています。創立は、約2000年前の第11代垂仁天皇の御代のことであります。延暦年間(782~806)には、すでに「天照大神遥宮」と称され、他の別宮と同様に祭祀が行われていたといいます。
皇大神宮ご鎮座の後、倭姫命(やまとひめのみこと)が御贄地(みにえどころ=皇大神宮へ奉る御供物を採る所)をお定めになるため、志摩国をご巡行の際に、伊佐波登美命が奉迎して、この地に当宮を創建して、皇大御神の御魂をおまつりしたと伝えられています。
『万葉集』に「御食(みけ)つ国、志摩の海女ならし、真熊野の小船に乗りて、沖辺漕ぐ見ゆ」とも歌われているように、志摩の国は風光麗しく、海産物に富み、古来神宮と朝廷のご料を貢進した地です。特に漁師、海女の崇敬があつく 伊雑宮で「磯守」を受け、身につけて海に入るのが風習となっています。

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▶近鉄志摩線上之郷駅下車徒歩約3分ほどです。

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▶手水舎。内宮外宮とくらべるコンパクトサイズです。

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▶異様に根本がふくれているご神木。

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▶神饌所でしょうか?

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▶20メートル程の参道の先に、御正殿があります。

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▶御正殿

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▶伊雑宮の御神田(おみた)
伊雑宮の南に日本三大田植祭の一つといわれる御田植神事が行われる神田があります。ここで収穫される米は神宮に奉納されます。

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▶伊雑宮のご料田で、毎年六月二十四日に行われるお田植は、 香取神宮、住吉大社のお田植とともに、日本三大御田植祭として有名です。 旧礒部九村が毎年輪番の奉仕で、古式ゆかしいく典雅なお田植が行われ、当日は 大変な人出でにぎわいます。

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います。

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2008年6月26日 (木)

真清田神社(H20.6.22)

●真清田神社(愛知県一宮市真清田1-2-1)
延喜式神名帳に「眞墨田神社」として所載され、名神大社に列し、大正3年に国幣中社に列格した名社です。古くより尾張国一の宮とされ、所在地の愛知県一宮市は、この真清田神社の尾張国一宮からきています。真清田(ますみだ)というきれいな社号は、当地が木曽川の清い水によって形成された水田地帯であったためと言われています。
社伝は神武天皇33年の創建とし、祭神は尾張氏の祖とされる天火明命。祭神の御子・天香山命が、葛城の高尾張邑から当地へ移って開拓するにあたり、父・天火明命を祀ったとしています。ただ、諸文献によると、江戸時代までは大己貴命あるいは國常之尊を祭神としており、正式に天火明命を祀ったのは明治以降のことです。また、祭神が8頭8尾の大龍に乗ってきたという伝承があることから、水神としても信仰され、尾張藩主はたびたび晴雨祈願をしていました。
中世以降は、尾張国一宮として朝野の崇敬をあつめ、鎌倉時代には順徳天皇が多数の能楽面(重文)を奉納。神領は、嘉禎元年(1235)に記された久我文書に、「水田129町9反300歩」と所載されています。江戸時代は、尾張藩主のあつい庇護を受けます。名古屋城築城後、初代尾張藩藩主・徳川義直1631年(寛永8年)に真清田神社の社殿の大修復を行なっています。また、尾張藩4代藩主の徳川吉通は1702年(元禄15年)に本殿を修造し、さらに1707年(宝永4年)には楼門を再建するなどしています。松平忠吉は神領200石を寄進、寛永4年(1627)には徳川義直から神領105石を寄進され、旧来からの神領とあわせて336石6升となった。寛永16年(1639)義直からあらためて黒印状を寄せられ、これより歴代の領主は、先規によって朱印状を寄せるにいたりました。また、1747年(延享4年)には尾張藩8代・徳川宗勝が本殿を修造、さらに1792年(寛政4年)にも尾張藩9代・徳川宗睦が同じく本殿修造を重ねており、真清田神社の尾張国一の宮としての崇敬が伺えます。
その後、1932年(昭和7年)社殿修理や境内の整備が行なわれたものの、残念ながら名古屋城同様に、大東亜戦争の米軍空襲によって一部を除き、ほとんど焼失しました。
境内社の服織神社は、祭神の母神であり、織物神とされる萬幡豊秋津師比賣命を祭祀。東海地区最大級の七夕祭り「おりもの感謝祭一宮七夕まつり」では、特産の毛織物が奉納されます。

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▶楼門前の太鼓橋。

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▶昭和36年再建の楼門。

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▶手水舎。

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▶拝殿。

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▶拝殿左から。

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▶奥がご本殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶神馬。

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▶夫婦楠。

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▶幸運楠。

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▶伝教杉。

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▶君が代に詠まれている「細石」

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▶服織神社拝殿。

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▶服織神社拝殿からご本殿。

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▶愛鷹社・犬飼社・天神社。

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▶鶏が放し飼いにされています。

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▶この階段を上ると

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▶須佐男社、愛宕社、秋葉社が祀られています。

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▶神池の中に島があり、八龍神社と厳島社が祀られています。

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▶神池の手前側に社がありますが、祭神は不明。

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▶稲荷神社。

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▶三八稲荷神社。

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▶三八稲荷神社の右となりの稲荷社。

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▶神水舎。

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▶ご神水。非常に美味しかったです。

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▶神水舎内の社、ご祭神は彌都波能賣大神齋様。

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▶子宝祈願らしい・・です。

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▶おもかる石。


●神明社(愛知県一宮市大宮1丁目付近)
尾張一宮駅から真清田神社に向かう途中に神明社という神社を発見しました。真清田神社に関係があるのかどうかも全く解りません。また、ご祭神や由緒など何の案内板もないので全く解りませんでした。ご挨拶だけさせて頂きました。

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2008年6月23日 (月)

椿大神社(H20.6.20)

●椿大神社(三重県鈴鹿市山本町字御旅1871)
椿大神社は「だいじんじゃ」ではなく「おおかみやしろ」と読みます。三重県鈴鹿市に鎮座される伊勢国一の宮であり、猿田彦大神をお祀りする総本宮です。
伊勢平野を見おろす鈴鹿山系の中央部に位置する高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽の麓に鎮座し、鈴鹿側支流の御幣川が形成する扇状地の根元に鎮座し、鬱蒼たる杉木立のなかに鎮座している。
昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称されています。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが大東亜戦争の為に列格は中断。昭和10年3月に警視庁は当社分霊を奉斎して国民守護・導きの祖神とし、現在の警視庁も交通安全の神として引き継いでいます。 
神代より高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽山中で営まれていた猿田彦祭祀であったが、垂仁天皇の皇女である倭姫命の神託によって猿田彦神陵前方の「御船磐座(みふねのいわくら)」に伊勢開拓神であるサルダヒコ神を主神としてニニギ尊・タクハタチチヒメ命を相殿に祀った社殿を造営したことにはじまるという。サルダヒコ神の神裔であり神世から祭祀してきた山本神主家は当社を拠点に伊勢地方を掌握していたが、垂仁天皇の代(垂仁天皇27年)に伊勢の皇大神宮鎮座にあたって、奉仕したのがサルダヒコ神の末裔とされる大田命(伊勢の猿田彦神社)であり、以来伊勢神宮と密接な関係にあった。
当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名とし、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、そして醍醐天皇期に「延喜式内小社」に列格。中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。
風水師、李家幽竹さんの著書「新版 絶対、運が良くなる旅行風水」において、日本国内で最強レベルのパワースポットと紹介されております。
経営の神様とも称えられる、松下電器産業株式会社の創始者の松下幸之助氏との御神縁も深く、境内の日本庭園と共に寄進された茶室「鈴松庵」も有名です。

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▶手水舎とご神木。

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▶カエルでした。

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▶庚龍神社。

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▶獅子堂(交通安全祈祷殿)。聖武天皇敕願奉納の獅子頭に由来し、日本最古の獅子舞を伝えている。1300年前に伝えられた獅子舞ということです。

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▶参道をまっすぐ行くとご本殿ですが、右に進みます。

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▶地蔵堂(椿延命地蔵尊と有縁無縁供養塔)。

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▶行満堂神霊殿・鈴鹿七福神霊場。

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▶松下幸之助社と思っていましたが、違いました。祭神は不明です。

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▶松下幸之助氏が寄進された茶室「鈴松庵」。

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▶君が代に歌われた「さざれ石」。

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▶参道に戻ります。昼の2時とは思えないです。

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▶御船磐倉。ニニギ尊らが御船でサルダヒコ神に導かれ、この場所にご到着したという。

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▶断りの鳥居。江戸期の神戸(鈴鹿)城主が境内の御神木を伐採して城を築き、完成後一夜で炎上。神威をおそれて奉納したという。

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▶大黒天様と恵比寿神様。

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▶高山土公神御陵。境内にある前方後円墳。

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▶別宮椿岸神社。猿田彦大神の妻神・天之鈿女命が主祭神として祀られており、全国の天之鈿女命の総本宮でもあります。 ご事績により芸道の祖神として信仰され、また鎮魂の神、夫婦円満の神、縁結びの神として崇敬されています。

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▶椿岸神社は、「つばきぎしじんじゃ」と読みます。こちらは「かみやしろ」とは言わないんですね。

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▶芸能関係の方の奉納も多くありました。

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▶椿岸神社拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶拝殿前に置かれていた「神招福臼」。3回搗いてお祈りするらしい。

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▶李家幽竹さんの記事も置かれていました。

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▶上の李家さんの雑誌の記事で椿恋みくじは絶対引いてみて。とありましたので年甲斐もなく引いてみました。かわいいおみくじです。

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▶開けると巫女さんのチャームが入っていました。内容も普通のおみくじと違って具体的でした。女の子向けなんでしょうね。

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▶いきなり激しい雨が降ってきました。

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▶李家先生曰く、拝殿右のこのプチ滝を撮影すると恋愛運が訪れるらしい。携帯の待受画面にするといいらしい。ほんまかいな。

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▶ということで、プチ滝の写真をいくつか。

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▶このプチ滝のお水を頂きましたが、本当に美味しかったです。

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▶扇塚。扇は、古来神を招ぎ奉るものとして芸道を志す方の心のよりどころとされ、古くなった扇を感謝の心を込めて、この塚に納めていただきます。

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▶招福の玉。

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▶縣主神社。

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▶椿護国神社。

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▶茅の輪。夏越の大祓の準備がされていました。茅と葦で作った大きな輪、茅の輪はそれをくぐることにより、疫病や罪・穢れが祓われるといわれています。「夏越の大祓」は、正月から6月までの半年間の罪穢を祓い、梅雨の時期に多い流行病や疫病にかからず、暑い夏を健康で暮らせるようにと古くより変わらずに伝えられてきている神事です。

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▶拝殿。

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▶拝殿を左から。

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▶拝殿から茅の輪。

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▶拝殿からご本殿。

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▶金龍明神の滝。先ほどの椿岸神社のプチ滝の川上にあります。神社後方の神山入道ヶ嶽を源とした大明神川からのこの金龍明神の滝は、お祓いご祈祷を受けないと入れません。この滝の水は、神水とされ、清く柔らかで昔より万病に効く薬水とされています。この滝では毎月11日にはみそぎ修法会が行われています。

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▶この金龍明神の滝の写真も何枚か。プチ滝よりこちらの金龍明神の滝の写真の方がありがたく感じます。

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▶椿大神社御朱印。

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2008年6月 3日 (火)

伊和神社(H20.5.31)

●伊和神社(兵庫県宍粟市一宮町須行名407)
播磨国一の宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社。うっそうとした木々に囲まれた古社。旧因幡街道のほぼ中央に位置する伊和神社は、祭神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)(大己貴神)で、農業・工業・商業等産業の神、縁結びの神、病気平癒の神として多くの人々の信仰を集めています。姫路駅からバスでいきました。途中一度乗り換え、とにかく遠かったです。

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▶入口に鳥居は立っておらず、参道を歩くと、途中に鳥居。木々が立派で神域に入ったという印象をうけます。

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▶さらに歩くと随神門があります。

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▶社殿は北向きです。一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽、石上に北向きに眠っていたのでそのところに社殿を造営したという。その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためという。

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▶拝殿 横から。

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▶幣殿 横から。

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▶ご本殿 横から。

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▶播磨十六郡神社 西八郡。

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▶播磨十六郡神社 東八郡。

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▶御霊殿。

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▶御霊殿の横からも参道があります。

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▶五柱社。

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▶社務所横の御神木。

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▶社殿右側の御神木。

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▶その御神木の横にこのような標石があります。

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▶階段を下ると鳥居があります。

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▶鳥居の奥に弁天様が祀られています。

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▶市杵島姫神社。

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▶伊和神社御朱印。

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2008年5月18日 (日)

住吉大社(H20.5.18)

●住吉大社(大阪市住吉区住吉2丁目9-89)
古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一の宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。昭和二十一年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本宮でもあります。

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▶南海住吉大社駅から正門をのぞむ。

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▶海上の無事を祈る海の神さまだからでしょうか・・・石燈籠が非常に多く奉納されています。

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▶反橋。太鼓橋とも呼ばれています。昔は、この橋の近くまで波が打ち寄せられていたそうです。

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▶この日は結婚式がありました。

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▶四角柱の鳥居であるため、角鳥居とも呼ばれています。

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▶角鳥居の前のご神木。

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▶第一本宮でも神前式が執り行われていました。

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▶神前式終了後の第一本宮。

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▶第二本宮でも神前式が執り行われていました。

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▶神前式終了後の第二本宮。

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▶第三本宮。

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▶第三本宮は仮遷宮のため、神様はいらっしゃいませんでした。

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▶第四本宮。

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▶第四本宮も仮遷宮のため、神様はいらっしゃいませんでした。

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▶第四本宮前のご神木。

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▶第四本宮前のご神井。

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▶大海神社。

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▶大海神社境内の志賀社。

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▶海子社。

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▶児安社。

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▶種貸社。

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▶種貸社前のご神木。

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▶星宮。

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▶五社。

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▶后土社。

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▶招魂社。

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▶左から薄墨社。斯主社。今主社。八所社。新宮社。

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▶楠珺社。

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▶楠珺社前のご神木。

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▶楠珺社裏側のご神木。

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▶楠珺社横のご神木。

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▶伊勢神宮遥拝所。

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▶貴船社。

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▶立聞社。

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▶禁酒禁煙の神様にお酒をお供えしてあるのはどうなんでしょうか?

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▶五所御前。別名を「高天原」ともいい、神霊をおむかえするミアレ所でもあります。石の玉垣のなかにある砂利には「五・大・力」と書かれた小石があり、これを集めてお守りにすると心願成就にきくとされます。

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▶海龍社。

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▶若宮八幡宮。

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▶鉾社。

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▶楯社。

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▶侍者社。おもとしゃと読みます。縁結びの神様。

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▶船玉社。

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▶市戎大黒社。住吉の「えべっさん」として親しまれています。大阪では最古のエビス神です。

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▶ご神田。

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▶浅沢社。カキツバタの名所でもあります。

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▶大歳社。

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▶おいとしぼし社。大歳社境内。

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▶「おもかる石」と呼ばれる不可思議な石が三基あります。人々は願掛けをしたのち、石を持ち上げ、軽く感じれば「可」、重く感じれば「否」であると伝えられています。

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▶住吉大社御朱印。前に参拝したときに頂いたもので、日付が違います。

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