カテゴリー「神社巡り 大阪」の10件の記事

2010年2月 9日 (火)

坐摩神社(H21.5.20)

●坐摩神社(いかすりじんじゃ)(大阪市中央区久太郎町4渡辺3 )
坐摩神社は正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、通称は「ざまじんじゃ」とで呼ばれています。摂津国一の宮として、生井神(いくいのかみ)・福井神(さくいのかみ)・綱長井神(つながいのかみ)・波比岐神(はひきのかみ)・阿須波神(あすはのかみ)の五柱を祭神としてお祀りしています。5柱を総称して坐摩大神(いかすりのおおかみ)と申します。
生井神は、生々活発の井水の神。福井神は、幸井・栄井で、繁栄の井水の神。綱長井神は、釣瓶を吊す綱の長くして、深く清い井水の神。阿須波神と波比祇神は、竃神とも云われ、『古事記』によると、大歳神の子神。波比祇神は、屋敷神と考えられ、庭の神。阿須波神は、足場・足下の神。足の神であり、旅の神とも言われています。
平安時代の延喜式の摂津国西成郡唯一の大社で神功皇后が新羅より帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島の渡辺の地(現在当社の御旅所がある中央区石町付近:天満橋の西方)に奉祀されたのを始まりとされています。天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂城築城に当り、替地を命ぜられ、寛永年間(1624年~44年)に現在地に移転。現在の坐摩神社の旧地名を渡辺町というのも元の地名も併せて移したものであり、全国の渡辺・渡部姓の発祥の地とされています。明治5年、府社に列し、明治11年に官幣中社に列せられました。
「坐摩(いかすり)」の語源として諸説あるらしいですが、土地または居住地を守るという意味の「居所知(いかしり)」が転じたとのことです。

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▶大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい三鳥居

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▶手水舎はいまいちでした

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▶拝殿

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▶拝殿とご本殿。昭和11年官幣中社に列せられた際に造営された社殿は、先の大戦の空襲で焼失。現在の社殿は昭和34年に鉄筋コンクリート作りで、戦前の姿のまま再建されました

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▶明治天皇聖躅。明治元年の明治天皇大阪行幸の際、ご親拝されて相撲を天覧された

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▶稲荷神社(龍丸稲荷大明神・黒龍稲荷大明神 )。現在社殿工事中で、ご神体は坐摩神社本殿にいらっしゃるとのことです。

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▶陶器神社。嘉永年間(1848〜1853)愛宕山将軍地蔵を祀ると伝えられ、火防の神として崇敬が厚く、陶器商人からは守護神と崇められていました。

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▶陶器神社(大陶祇神・迦具突智神)。昭和46年再建。
この神社は戦前は北は筋違橋から南は四ツ橋迄の両側に二百数十店もの陶器店が軒を並べ、戦後は西横堀川に再建された陶器問屋の守護神といわれ、当初は西区靱南通一丁目にあったが、明治40年、市電敷設の道路拡張のため、現在の地に移転されました

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▶現在社殿工事中で、ご神体は坐摩神社本殿にいらっしゃるとのことです。

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▶陶器神社社殿両脇の灯篭は清水焼

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▶皇太子殿下ご成婚奉祝記念の燈籠。これも陶器で作られています

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▶招霊の木

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▶神倉でしょうか?

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▶禊所。境内に大阪府神社庁があり、神社庁のビルが当社の社務所を兼ねています。神官の禊ぎの建物が本殿脇に設けられています

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▶大江神社(神功皇后・應神天皇・武内宿禰)

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▶繊維神社(天羽槌雄命・天棚機姫命)

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▶大国主神社(大國主神・事代主神・少彦名神)

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▶天満宮(菅原道眞)

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▶相殿神社(春日・住吉・大神受美・猿田彦・大宮比賣・多賀・天御中主・産靈・直比・諏訪・事平・大歳)

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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2008年7月27日 (日)

堂島薬師堂(H20.7.27)

●堂島薬師堂(大阪市北区堂島1-6-20)
大阪駅から南に約500メートル行ったところにある北新地の西側、高層ビル「堂島アバンザ」の敷地にあるミラーガラスを127枚組み合わせた直径7mの球状の不思議な建物。 ここは、1400年以上の歴史の由緒ある堂島薬師堂です。
薬師堂とは、薬師如来を安置した御堂のことで、薬師如来とは、人々の病気を治し、安楽を得させる仏様。仏教の伝来以後、治病の仏として庶民に広く信仰されてきました。そんな薬師如来を安置した堂島薬師堂は、聖徳太子の時代に建立されたと伝えられています。また、元々この堂島辺りは、中洲でそこにこのお堂があったため、「堂島」の地名になったとも言われています。しかし、戦後、毎日新聞社が増築した際、敷地内に祀られていた薬師堂を敷地東向いの社有地に移設しました。平成11年に毎日新聞社屋跡に堂島アバンザを建設する際、奈良の薬師寺や地元の要請があり、再び元の場所に戻りました。
以前の御堂は瓦屋根の日本的な建物でしたが、新しい御堂はミラーガラスと石で構成した現代的なビルと調和を図るためモダンにデザインされました。形はミラーガラス127枚を組み合わせた直径7mの球状です。これにもちゃんと理由があり、球体は無限に広がる宇宙や天体、そして如来像の永久的なイメージを感じさせます。外装の黄金色のガラスは、御本尊として祀っている薬師瑠璃光如来にあやかっています。「瑠璃」は「ガラス」の意味があります。御堂の周囲には水鏡のような円形の池(直径20m)を巡らせ、池には蓮の花を模したオブジェをあしらうなど、様々な工夫が凝らされています。堂島薬師堂奉賛会から寄贈された「合掌」をモチーフとした燭台アートを設置、さらに欄干を兼用したベンチを設けています。御堂の下から霧を発生させ、夜間は池の照明を幻想的な空間となっています。平成16年3月19日に行なわれた第1回堂島薬師堂「お水汲み祭り」では、薬師堂の僧侶によって祈祷され、お香水で清められた竹筒護符が配られ、春と福を呼ぶ祭事が復活しました。
堂島は江戸時代には米市が設置され、現在は高層ビルが建ち並ぶオフィス街。そんな堂島で、薬師堂は栄枯盛衰を繰り返し、そして現在も月2回の法要があり、節分の日に、厄払いと鬼追い行事を行っています。普段でもお参りする人もいて、大変親しまれています。私の会社も堂島なのですが、本日はじめてお参りさせていただきました。

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▶堂島アバンザ。堂島薬師堂は、この堂島アバンザの敷地の東側。新地の繁華街の西側に位置します。

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▶今も月2回、奈良薬師寺僧侶による法要が行われています。この案内板の裏に堂島薬師堂由来がかかれてあります。

堂島薬師堂 由来
西暦593年、推古朝のころの史料に「東は玉造り四天王寺をつくり、西の方州の中に御堂を建立」の記録があるという。また、延宝三年(1675年)に書かれた古文書「芦別船(あしわけぶね)」にも「聖徳太子が四天王寺創建時に、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、州の中に流れつき、お堂を建てた」との記述があり、これが薬師堂の起源と言われている。
海上を航行する船から、このお堂がよく見えたところから薬師堂のある島が「堂島」の地名になったとも言われている。お堂内には、薬師如来像、地蔵菩薩像、弘法太師像など仏像4体と、ねはん図など軸二本がおまつりしてある。薬師如来像は室町時代の作と鑑定されているが、その由来は定かでない。また、弘法太師像は薬師如来像よりも歴史が古いと伝えられており、明治26年(1893年)からの大阪太師詣りの行事では薬師堂を第一番の霊場として、1日数十万人の参詣者で賑わうほどであった。
堂島薬師堂は堂島の世相、経済と連動しながら栄枯盛衰を繰り返し、現在は、月2回の法要と、節分の日に、厄払いと鬼追い行事を行っている。
平成11年3月

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▶参道?から境内?を入ったところに手洗場もあります。

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▶堂島薬師堂。とても御堂とは思えません。

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▶堂島薬師堂内。ガラスの扉は普段は閉められています。薬師如来様・弘法大師様・地蔵菩薩様が祀られています。

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▶御堂の扉の両脇に豊川稲荷大明神様と白龍辨財天様が向かい合って祀られています。

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▶お堂に向かって左手の池の中に祀られている弁財天様。

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▶なんと「百度石」まであります。御堂のすぐ前のところにありますので、百回往復してもそんなにしんどくなさそうです。

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2008年7月 6日 (日)

綱敷天神社・綱敷天神社御旅社・歯神社(H20.7.5)

●綱敷天神社(大阪市北区神山町9-11)
綱敷天神社は、別名「喜多埜天神(キタのてんじん)」と呼ばれ、梅田キタの氏神さまと慕われています。 この神社の周辺は古来より、梅の木が沢山あったと見え、梅田、梅ヶ枝町などの地名が残っています。
弘仁13年(822)嵯峨天皇が兎餓野に行幸したことに由来し、同天皇崩御後、その追悼のため左大臣源融が承和10年(824)に現在地に社殿を創建し、嵯峨天皇の諱である神野(かみぬ)をとり「神野太神宮」と称した。現在の社名は、延喜元年(901)菅原道真が大宰府に左遷の際、この地に今は盛りと咲いていた紅梅に目を留め、これを観賞するため船の艫綱(ともづな)を円く円座状に敷いて休息したことに由来し、神社の名前を「網敷天神社」と称せられるようになりました。
正暦4年(993)、冤罪の晴れた菅原道眞公の神霊に対し、正一位を追贈された事により、当改めて社殿を建立する事となり、神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、「北野(喜多埜=キタの)天神社」と称されるようになりました。この「喜多埜」が「キタ」となり、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったと伝えられています。

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▶拝殿。大東亜戦争末期の空襲で社殿は灰燼に帰しましたが、神宝の御綱と御影は戦災を免れました。現在の社殿は昭和31年の再建。

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▶ご本殿うしろから。

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▶筆塚。三筆のお1人、嵯峨天皇と三蹟のお1人菅原道眞公を御祭神にお祀りする由縁から、書道の神さまとして信仰篤く、その御神徳を偲んで、菅公御神忌1075年祭の折に、当神社の崇敬家であられる中野隆雄氏より奉納された石碑です。

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▶従軍記念碑。この石碑は明治27、8年に日清戦争への従軍兵士として北野村から出征した氏子の無事を祈念して建立されたもので、石碑裏面には出征された方々の名前が刻まれています。この碑は太平洋戦争後、軍国時代の遺物であるとして、廃棄処分となる予定でしたが、国家の為に個を公に奉じて出征した人々の思いを偲び、崇敬者らの手により密かに地中に埋められ、いつか出征された兵士の思いを偲ぶ事を憚らない時代が来るまでの間、境内地に埋められていました。昭和52年の菅公御神忌1075年祭に当たり、記念のためこれを掘り起こし、再建立したとのことです。

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▶牛舎。天神さまこと菅原道真公をお祀りしている神社には必ずといっていい程、牛の像がお祀りされています。これはお稲荷さんならキツネ、八幡さまなら鳩、春日さんなら鹿というのと同じで、天神さまなら牛がお使いの動物といわれる為です。道真公は丑年のお生まれであり、伝説では丑の月の丑の日の丑の刻のお生まれであった為であるとか。

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▶喜多埜稲荷神社。現在では、農耕神としての信仰ではなく商売繁盛の神さまとして信仰篤く、キタで会社を営む方々からは特に深く信仰されています。喜多埜稲荷神社の両脇にあるこの石橋は萬載橋と呼ばれる橋で、安政年間の文字が見えることから、江戸末期に作られた橋と思われます。

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▶白龍社。白龍大神と猿田彦大神とを合わせ祀るお社です。元々は喜多埜稲荷神社の裏手に鎮座いたしておりましたが、近年の社地整理の折にこの地に移動しました。方除、災難除けの神さまとして、当社の裏鬼門の守り神として今も御鎮座されておられます。


●歯神社(大阪市北区角田2-8)
綱敷天神社末社 歯神社と称し、今から数百年前に梅田一帯が大洪水に見舞われ、あわや水没するかにみえた折、地元の人間がお祀りしていたお稲荷さんの御神体である巨石(本殿地中深くに鎮座)が、流れ来る水を歯止めし、梅田の水没を防いだことから、歯止めの神さまとして慕われました。のちに歯止めの語呂が転じて歯痛止めにご利益があるお社といわれ、いつの頃からか歯神社とよばれるようになりました。また先の大戦の折、大阪は大空襲に見舞われ、梅田一帯は火の海となりましたが、この折も歯神社までは火が届かず、戦火を歯止めしたともいわれています。
現在では、全国の歯科医はもとより、歯ブラシ、歯磨き粉、歯に関するガム、入れ歯、歯科技工士など歯に関わる老若男女の参拝が絶えずあり、歯の大神さまとして慕われています。

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▶エスト1とヘップファイブの間の超一等地に鎮座されています。無人の祠です。


● 綱敷天神社御旅社(大阪市北区茶屋町12-5)
綱敷天神社 御旅社と称し、今から一千百年ほど昔の、延喜元年(901)に、菅原道眞公が無実の罪をきせられ京都より九州の太宰府へと左遷された際に、この梅田の地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、それをご覧になるため、乗ってこられた船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円く円座状に敷いてご覧になられました。その由縁より、「綱を敷く」という意味から「綱敷天神社」と称され今に至っております。
「御旅社」といいますのは、神様の別荘のようなもので、綱敷天神社御本社の神様が夏の渡御祭の際に、地元梅田の町が平穏であるかどうかご覧になられ、その時にお休みになられる為のお社が御旅社です。この御旅社は元々御本社の南にあり、古くには「梅塚天神」とも称され、菅原道眞公がご覧になられた紅梅がありましたが、明治の初年頃にこの梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいと土地の寄進があり、現在の地に鎮座致しました。故に臨時で設けられる普通の御旅所とは異なり、常に御祭神が鎮座まします御旅所という事で、御旅社と呼ばれるようになっています。

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▶阪急線沿いに鎮座されています。阪急線の拡張により境内地の整備を二度行われるなど、梅田の近代化の波にもまれた複雑な経緯をもつお社です。

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▶鳥居をくぐるとすぐに階段で、階段を上ったところがご社殿です。

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▶拝殿。境内に奥行きがないので、全体を撮影できません。

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▶ご本殿横から。

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▶玉姫稲荷神社。現在は御旅社内の末社としてお祀りされていますが、御旅所が梅ヶ枝町(現在の西天満6丁目)から当地に遷座する明治期までは茶屋町の産土神として御茶屋で働く女性の守り神さまとして崇敬をあつめていた神社であったようです。現在のご社殿は昭和57年の御旅社造替の際に建て替えられたもので、流れ作りの御社殿になっており、近年では、梅田の縁結びの神さまとして若者を中心に慕われています。

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2008年7月 5日 (土)

堀川戎神社から龍王大神(H20.7.5)

●堀川戎神社(大阪市北区西天満5丁目4-17)
堀川戎神社は、大阪市内および近畿一円では、大阪市内南部の今宮戎神社および兵庫県の西宮戎神社などと共に商売繁盛の神様として知られています。「堀川のえべっさん」として知られ、毎年1月9日から11日にかけて十日戎(とおかえびす)が開催されます。
欽明天皇の御代、止美連吉雄が蛭子大神の神託により堀江で玉を得、それを神体として富島に蛭子大神を祀ったのに始まります。当時は瓊見社(たまみのやしろ)・止美社(とみのやしろ)と呼ばれて、白雉2年(651年)に少彦名命(淡島明神)、大宝3年(703年)に天太玉命を配祀。のち平治の乱(1159)を避け、丹波国山家に動座されましたが、文和年間(1352年~1355年)神主・藤原吉次が現在地に遷座再興しました。以来、蛭子社・恵美須社・堀川戎社と呼ばれ信仰厚く、殊に江戸時代中期からの十日戎は盛大となり、諸人群参したと記されています。明治40年数社を合併、堀川神社となり村社に列した。昭和二十年戦災で社殿始め全建物を焼失しましたが、順次復興し、昭和38年本殿を再建し、ミナミの今宮、キタの堀川と並び称されるようになりました。そして明治40年、数社を合併、堀川神社となり村社に列しました。昭和20年の戦災で社殿始め全建物を焼失しましたが、順次復興し、昭和38年現在の御本殿を再建しました。

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▶表門。鳥居の前の道は阪神高速道路が走っています。

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▶北門。

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▶北門を入ったところにある御神木。

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▶手水鉢。変わった形状をしています。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。祭神は蛭子大神、少彦名命、天太玉命。

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▶境内摂社。提灯には淡島神社をはじめ、松尾・工匠神社、大国主・菅原社・皇大神・幸神社などの名が記載されており、明治40年に合併した神社の名前と思われます。

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▶福興戎像。平成7年1年17日の阪神淡路大震災で破断した表門石造鳥居(昭和2年奉納)の柱に彫刻されており、平成10年の十日戎に奉納され、平成12年、「幸いを与える」の「福」と、「生ずる・起きる・盛んになる」の「興」を付けた「福興戎像(ふくこう・ふくおこしえびす)」の応募名称を採用し命名されました。 被災鳥居から蘇った由来をもって、除災招福の象徴として、広く崇敬者の心の支えとなっています。

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▶榎木神社、通称、地車稲荷神社。昔、この榎の大木に、吉兵衛という狸が棲んでいたんだそうです。榎の大木の根元には吉兵衛という老狸が住んでおり、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていたと伝えられる。本殿が地車型なのはそのためである。地車稲荷の神使は狐ではなく狸である。願い事が叶うとその夜に地車囃子が聞こえるとされ、願いが叶ったお礼として地車の模型や絵馬を奉納する習わしとなっています。

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▶他に類を見ない地車のご本殿。

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▶だんじりのご本殿の後ろにも稲荷社が祀られています。


●龍王大神(太融寺)(大阪市北区野崎町8)
扇町通りを神山町交差点を右折すると、広い道路の真ん中に玉垣で囲まれた大きなイチョウの木と祠があります。灯籠の柱には「太融寺」の文字があります。昔はこの辺りも太融寺の境内で、この道路を作るときイチョウの木を切り倒そうとして斧を入れた人すべてが変死したという曰くのあるイチョウで、いまもこのイチョウの幹の周りには斧を入れた後が2、3か所根元近くに残っています。祟りを恐れた人々がこのイチョウをご神木として祀り、龍王大神として今も篤く信仰されています。太融寺境内には本堂の他に空海(弘法大師)を祀る大師堂、不動明王を祀る不動堂、多くの女性の信仰を集める淀殿の墓所、その墓所を守るかのように隣には雌神を祀る白龍大社があり、また、縁結びの神としても信仰を集めており、女性は太融寺境内の白龍大神、男性は境内の外れに祀られるこの龍王大神にお参りするとよいとされています。

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▶道路が不自然にこの社を避けるように曲がっています。

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▶太融寺の文字が見えます。

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▶この御神木に「蛇が巻き付き、このご神木を守っていた。」らしく、「巳さん」と地元の古くからの人は呼んでいるらしいです。

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▶斧を入れた跡が、根元近くに残っています。

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2008年6月15日 (日)

難波八阪神社・敷津松之宮(大国主神社)・今宮戎神社(H20.6.14)

●難波八阪神社(大阪府大阪市浪速区元町2-9-19)
難波八坂神社ではなく難波八阪神社が正式な名前らしいです。古来、難波一帯の産土神として信仰を集め、かつては七堂伽藍、子院十二坊を有する繁栄ぶりだったが、兵火に遭い、衰退。明治維新後、神仏分離で寺は廃絶し、昭和20年の空襲で社殿も焼失しました。現在の社殿は戦後に再建されたものです。巨大な獅子頭をかたどった高さ12m、幅11m、奥行10mの絵馬殿がとくに目を引きます。毎年1月第3日曜日に行なわれる綱曳神事は、祭神の素戔鳴尊が八岐大蛇を退治し、民の困苦を除いたという故事に基づいて始められたもの。平成13年に大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました綱引き(綱曳)が開催されます。これは素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した故事に由来してるそうです。7月には、「船渡御」と「獅子舞」があります。獅子舞は、この難波八阪神社では夏のイベント。戦前は4頭の獅子が200人のカルサン姿(だぶだぶズボンの南蛮服)の踊り子を連れて踊り回ったそうです。

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▶正門。

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▶東門。

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▶お祭りの準備なのでしょうか?境内にテントが張ってあって、神輿がありましたが、作業をしている人は誰もいません。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶さすが大阪っていう感じです。獅子舞に命かけてる神社だけに、こんな巨大な獅子頭を作ってしまったんでしょうね。これが昭和49年に作られた絵馬殿で大獅子殿というそうです。高さ12m幅11m奥行き10m。口の中が舞台になっていて、夏祭りや神事の際には、奉納舞などが行われているそうです。

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▶右から皇大神社、市杵島神社、三法荒神社、稲荷神社。

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▶境内摂社。祭神等はわかりませんでした。

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▶戦艦陸奥主砲抑気具記念碑。

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▶祇園の文字も見えます。

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▶ご社殿の間に対にありましたが、なんの碑かわかりません。

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▶殉国之碑。

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▶篠山神社。

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▶難波八阪神社御朱印。


●敷津松之宮(大国主神社)(大阪市浪速区敷津西1丁目2番)
正式には「敷津松之宮大国主神社」と呼ばれます。社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。1600年以上の歴史を誇る古い神社です。1744年、今宮戎神社が「えびす様」なら「大黒様」が無いと纏まらないということで、今宮戎神社に近い敷津松之宮の中に摂社として「大国主神社」が勧請されています。
大国主神社としての歴史は、比較的新しいものであるが、商売繁盛の神として、東は今宮の戎さん、西は木津の大黒さんと親しまれ、江戸期の10日戎では「戎大黒、両社詣でて本参り」と言われていたようです。神功皇后が松の木を植え、荒れる海の安全を祈った「松之宮」と、“木津の大国さん”の「大国主神社」が相殿となっています。

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▶南側の正門には「敷津松之宮」と社額があります。

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▶東門には「大国主神社」と書かれています。

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▶南側の鳥居から入ると正面が敷津松之宮の本殿。東側から入ると正面が大国主神社の本殿ということで境内で参道がクロスしてます。同じ境内に二つの神社があって、入り口の名前が別々になってるってまるで二世帯住宅みたいです。素盞嗚尊と大国主命は親子ですし、まさに二世帯神社です。

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▶敷津松之宮拝殿。

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▶敷津松之宮拝殿からご本殿。

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▶大国主神社ご社殿。大国様は、狛犬の代わりを「ねずみ」が勤めています。

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▶ご社殿内の大国様。

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▶楠稲荷社。

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▶白龍明神社。隣の楠は明治百年記念樹とありましたが、明治は45年間だったのに、なんで百年なのか解りませんでした。

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▶手水舎。

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▶ご神岩なのでしょうか?細い注連縄が巻かれていました。もう古くて注連縄か単なるひもかは解りませんでした。

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▶木津勘助像。関西人なら誰でも知っている放送作家・新野新さんの祖父が建てたらしいですが戦時中に供出され、戦後、父嘉雄さんが再建された。新野新さんも敷津にお住いとラジオでお話しされていたような記憶があります。
木津勘助は大阪の伝説的な英雄で、豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くしました。徳川時代に木津川の開削により大阪の発展に寄与した功績とともに、寛永16年(1639年)に近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、米(大阪城の備蓄米)放出を願い出ましたが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えました。それも限度がありついに「お蔵破り」を決行したことなどから今なお敬愛されています。
木津勘助に関してはこちらのルルさんのブログで詳しく書かれています。
http://salon.stage007.com/header1000011/dream/1019964/archive/17/

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▶敷津松之宮(大国主神社)御朱印。


●今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10)
大阪の商売の神様として有名な神社。聖徳太子が四天王寺を建立したときに同地西方の鎮護として祀ったのが始めと伝えられ、天照皇大神・事代主命・外三神を祭神としています。1月9・10・11日の三日間の「十日戎」には約100万人の参詣者が訪れます。そう広くないこの境内に3日間で100万人というのは想像を絶する混雑ぶりなのでしょうね。十日戎は西宮戎と堀川戎しかお参りしたことがないもので、来年は今宮戎にもお参りしたいと思います。
毎年選ばれる十日戎の福娘は全国的に有名で藤原紀香さんも今宮戎の福娘でした。この福娘に採用されるといい縁談にめぐまれたり、いい仕事につけたりするという評判を呼び、毎年相当数の応募があり、競争率80倍以上の難関なのです。福娘発表会はテレビ番組として収録され年末に放送されます。

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▶正門。

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▶正門を入ると正面にご社殿ですが、ちょっと微妙にズレています。

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▶参道?この写真の手前が正門ですが、これも正面が正門でなくちょっとズレています。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶大国社。

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▶ご本殿横から。

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▶ご本殿裏から。

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▶稲荷社。

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▶株式会社クボタの献灯。鳥居もクボタの奉納でした。クボタ創業者久保田権四郎氏の今宮戎神社への崇敬が非常に篤かったようです。
グボタさんは創業の地、大阪市浪速区敷津東に今も本社を構えておられます。

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▶今宮戎神社御朱印。前に参拝したときにいただいたもので日付が違います。

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2008年6月13日 (金)

大阪天満宮(H20.6.12)

●大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目1番8号)
大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期にさかのぼります。菅原道真公は、延喜元年(901年1月25日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の讒言により昌泰4年(901年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになりました。菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、2年後にわずか59歳でその生涯をとじました。(延喜3年/903年2月25日)その約50年後、天暦3年(949年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座されました。

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▶正門。

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▶正門の大注連縄。

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▶蛭子門。

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▶正門を入った所すぐに鎮座の黒土社(御井社)。

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▶拝殿。

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▶ご本殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶ご社殿西側の登龍門。

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▶ご社殿東側の登龍門。

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▶ご本殿裏側。

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▶大将軍社。菅原道真公が大宰府への途中、立ち寄り参拝したのが、この大将軍社。その後、村上天皇の勅命により、当地は菅原道真を主神とする天満宮となったため、大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっています。

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▶神明社。

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▶右が白太夫社。左が老松社紅梅殿。

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▶老松神社。

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▶蛭子遷殿。平成19年に60年ぶりに復活したえべっさんのときはこちらに殿にお参りをしました。普段はえべっさんはいらっしゃらないようです。

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▶十二社。

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▶八坂社。

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▶妻社。

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▶白米稲荷社。

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▶白米稲荷社ご社殿内にある狐・天狗の爪研ぎ石。

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▶稲荷奥宮。

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▶天満弁財天様・鶴吉大明神様・鶴姫大明神様。

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▶住吉社。

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▶吉備社。

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▶八幡社。

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▶松尾社。

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▶霊符社。

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▶霊符社拝殿からご本殿。

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▶祖霊社と星合の池・星合の橋。

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▶大阪天満宮には碑や塚が多くありました。

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▶大阪天満宮御朱印。前に参拝したときに頂いたもので、日付が違います。

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2008年6月 9日 (月)

サムハラ神社(H20.6.6)

●サムハラ神社(大阪市西区立売堀2−5−26)
本日、たまたま西大橋の駅の近くで待ち合わせがあり、地図を見ていると地図上にサムハラ神社という鳥居マークを発見。今までカタカナの名前の神社は見たことも聞いたことがないし、神社の名前を騙った何かの施設かなと思いながらも気になったのでちょっとググってみました。

「サムハラ」は、パソコンでは変換できません。漢字っぽい4文字で示され、文字そのものに「力」が宿り、古くからお守りとして親しまれてきたのだそうです。

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▶これでサムハラと読むのです。

サムハラという言葉自体もその由来は相当古く、「天御中主大神」、「高産巣日大神」、「神産巣日大神」を総称して「サムハラの大神」と称え奉られています
天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)の造化三柱(ぞうかのさんしん)とも呼ばれる神々が祀られているサムハラ神社。
天之御中主神が「造化三神」の、そのトップに立つ神です。 現在の神道でも天之御中主神は、最高神として位置づけられているようです。
その昔、大自然の驚異が神の御技でしかなかった頃。古代の人々はサムハラと呼ばれる原初三柱の神様を考え出したらしいです。この三柱を表す文字が「サムハラ」、どうやらこれが神道の始まりのようなものとのことです。
もともとは天照大御神の神代の時代に、御祓いの祝詞として発祥した言葉で、外部から侵入する「ツミ、トガ、ケガレ」を避け、開運と成功を祈る祝詞らしいです。
「最高の神は?」 との問いに、多くの人は「天照大御神」と答えるでしょう。 しかし、天照大御神が現れるのは、造化三神よりもずっとずっと後のことになります。
このサムハラ神社は、たまよけ神社とも呼ばれていて、その力により大阪府警第一方面機動警ら隊が横にあるんだとか・・・・

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▶サムハラ神社北門

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▶小さい神社ですが、奥宮が美作(岡山県)にあるとは、非常にスケールの大きな神社です。

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▶小さい神社でしたけど、寄進者の名を見ると凄いです。正面にまわってみると、誰でも知ってるような有名企業やある首相経験者の名前がずらりありました。

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▶ご本殿。

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2008年5月27日 (火)

生国魂神社御旅所(H20.5.26)

●生国魂神社御旅所(大阪市中央区本町橋8丁目)

御旅所と行宮との違いはよく解りません。ウィキペディによると、御旅所とは・・・
神社の祭礼(神幸祭)において神(一般には神体を乗せた神輿)が巡幸の途中で休憩または宿泊する場所、或いは神幸の目的地をさす。巡幸の道中に複数箇所設けられることもある。御旅所に神輿が着くと御旅所祭が執り行われる。「ウィキペディアより引用」

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▶看板は生国魂神社行宮となっていました。
 松屋町筋沿いで気付かずに通り過ぎてしまいそうな感じです。

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▶ご本殿は生国魂造りではなく、普通の神社という雰囲気です。

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▶小さい神社ですが、綺麗に手入れされています。

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▶お稲荷さん(白瀧大神・豊國大神)も祀られています。

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2008年5月18日 (日)

住吉大社(H20.5.18)

●住吉大社(大阪市住吉区住吉2丁目9-89)
古くは摂津国 (せっつのくに=大阪府北西部と兵庫県南東部を占める旧国名) の中でも、由緒が深く、信仰が篤い神社として、「一の宮」という社格がつけられ、人々に親しまれてきました。昭和二十一年までは官幣大社であり、全国約2300社余の住吉神社の総本宮でもあります。

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▶南海住吉大社駅から正門をのぞむ。

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▶海上の無事を祈る海の神さまだからでしょうか・・・石燈籠が非常に多く奉納されています。

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▶反橋。太鼓橋とも呼ばれています。昔は、この橋の近くまで波が打ち寄せられていたそうです。

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▶この日は結婚式がありました。

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▶四角柱の鳥居であるため、角鳥居とも呼ばれています。

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▶角鳥居の前のご神木。

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▶第一本宮でも神前式が執り行われていました。

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▶神前式終了後の第一本宮。

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▶第二本宮でも神前式が執り行われていました。

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▶神前式終了後の第二本宮。

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▶第三本宮。

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▶第三本宮は仮遷宮のため、神様はいらっしゃいませんでした。

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▶第四本宮。

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▶第四本宮も仮遷宮のため、神様はいらっしゃいませんでした。

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▶第四本宮前のご神木。

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▶第四本宮前のご神井。

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▶大海神社。

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▶大海神社境内の志賀社。

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▶海子社。

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▶児安社。

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▶種貸社。

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▶種貸社前のご神木。

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▶星宮。

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▶五社。

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▶后土社。

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▶招魂社。

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▶左から薄墨社。斯主社。今主社。八所社。新宮社。

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▶楠珺社。

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▶楠珺社前のご神木。

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▶楠珺社裏側のご神木。

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▶楠珺社横のご神木。

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▶伊勢神宮遥拝所。

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▶貴船社。

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▶立聞社。

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▶禁酒禁煙の神様にお酒をお供えしてあるのはどうなんでしょうか?

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▶五所御前。別名を「高天原」ともいい、神霊をおむかえするミアレ所でもあります。石の玉垣のなかにある砂利には「五・大・力」と書かれた小石があり、これを集めてお守りにすると心願成就にきくとされます。

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▶海龍社。

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▶若宮八幡宮。

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▶鉾社。

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▶楯社。

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▶侍者社。おもとしゃと読みます。縁結びの神様。

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▶船玉社。

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▶市戎大黒社。住吉の「えべっさん」として親しまれています。大阪では最古のエビス神です。

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▶ご神田。

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▶浅沢社。カキツバタの名所でもあります。

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▶大歳社。

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▶おいとしぼし社。大歳社境内。

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▶「おもかる石」と呼ばれる不可思議な石が三基あります。人々は願掛けをしたのち、石を持ち上げ、軽く感じれば「可」、重く感じれば「否」であると伝えられています。

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▶住吉大社御朱印。前に参拝したときに頂いたもので、日付が違います。

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2008年5月12日 (月)

生国魂神社から露天神社、徳兵衛大明神(H20.5.12)

●生国魂神社(いくたまさん)(大阪府大阪市天王寺区生玉町13-9)
生國魂神社は、「難波大社(なにわのおおやしろ)」の尊称をもって広く朝野の信仰を集め、明治には官幣に列せられるなど、国土の守護神、そして大阪の総鎮守として崇敬されている神社です。
つい先月に初めて参拝してから、お気に入りの神社のひとつになりました。それまでは、近くまで来ることはあっても、生国魂神社のことすらも知らずにいました。巫女さんや神主さんも皆さん感じがよくて、いい空気の神社です。ゴールデンウィークのころは、子供連れの参拝者にミニ鯉のぼりをプレゼントされていました。

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▶拝殿・本殿の造りは生国魂造を言われ、他に類を見ない建築様式らしいです。コンクリートの造りなのがちょっと残念です。

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▶賽銭箱から本殿。はっきりとは見えません。

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▶皇大神宮。

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▶住吉神社。

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▶天満宮。

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▶この鳥居の向こうが鎮守の森。

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▶5月12日なのに、なぜかまだ鯉のぼりがありました。

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▶清々しい空気に満ちていて、非常に落ち着きます。

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▶市民の憩いの場という感じです。子供たちもたくさん遊んでいました。

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▶参拝順路にもどって、進みます。

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▶看板の後ろのご神木。

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▶城方面八幡宮。「きたむきはちまんぐう」と読みます。

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▶鞴神社。

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▶家造祖神社。ここだけ鳥居が木製でした。

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▶浄瑠璃神社。

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▶精鎮社。商売繁盛の神様なので特に気持ちを込めてお参りしました。鳥居の下に池があり、非常に大きな鯉が何匹も泳いでいます。

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▶稲荷神社と源九郎稲荷神社。普段は稲荷社にはあんまりお参りしないのですが、こちらの稲荷神社はお参りさせて頂きました。

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▶鴫野神社。淀君が篤く崇敬したと伝えられています。女性の守護神として崇められています。

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▶鴫野神社の裏のご神木。神の使いとされる巳さんの住むご神木は、鴫野神社と合わせて崇められています。

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▶鴫野神社の隣にある「がけっぷち占い」。これは非常に気になります。ネーミングがすばらしいですね。一度みてもらいたいです。土日だけ鑑定のようです。

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▶生国魂神社御朱印。前回参拝した際にいただいたもので、日付が違います。

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▶いくたまさん参拝のあとはいつもここ。24時間営業なんですって。


●露天神社(大阪市北区曽根崎2丁目5番4号)
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▶露天神社に着きました。

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▶露天神社正門はこちらと思います。

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▶夕方なので、帰宅の途中なのでしょうか、意外と境内に人が多いです。露天神社境内自体が通り抜けの近道になっていて参拝せずに繁華街に行く人も多いです。

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▶恐ろしいですね。

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▶金刀比羅宮・水天宮

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▶祓戸社・御井社

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▶難波(夕日)神明社

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▶玉津稲荷社。

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▶徳兵衛とお初。露天神社は曾根崎心中の舞台となったところです。

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▶露天神社御朱印。


●徳兵衛大明神(大阪市北区梅田1-2-2大阪駅前第2ビル3階)
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▶大阪駅前第2ビルの各階のエスカレーター付近にこういった案内板があります。昔からこの案内板はあったように思います。

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▶大阪駅前第2ビルの3階の駐車場の小道をゆくと右手に社が見えます。

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▶徳兵衛大明神が祀られています。ビルの3階の駐車場の中にあるのは違和感がありますが、ごくごく最近まで存在を知りませんでした。露天神社の曾根崎心中の徳兵衛とは関係ないようです。


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