カテゴリー「神社巡り 京都」の8件の記事

2010年3月 3日 (水)

日向大神宮(H21.5.27)

●日向大神宮(京都市山科区日ノ岡一切経谷町29)
日向大神宮は、京都最古の宮で、古くは日向宮・日向神社・粟田口神明宮・日岡神明宮とも称し、社殿は神明造りで内宮・外宮が奉斎され「京の伊勢」として名高く、昔は東海道を往来する旅人たちの道中の安全祈願や、伊勢神宮の代参として多数参拝がありました。また、神社の入口の一ノ鳥居の所が粟田口(京の七口の一つ)に当り弓屋・井筒屋・藤屋の有名な茶屋があって旅人たちの送り迎えが行われ大変賑わいました。周囲の山は神体山で、日ノ山・神明山(東山三十六峯の一山)と称し、神域には桧・杉・松の老樹が繁茂し、桜・つつじ・紅葉が多く四季の風光明媚で大自然の幽邃の霊地であります。
日向大神宮は、社伝では顕宗天皇の治世期に、日向高千穂峯の神蹟(高千穂天孫降臨神話によって神聖視された場所ということ)を現社地の立つ山に遷して、当社信仰としての起源が始まったそうです。のち、天智天皇はこの山を「日御山(または日ノ山)」と呼び、清和天皇の治世期に当社が勧請されたといわれます。清和天皇は日向宮の勅額を賜い、醍醐天皇は延喜の制で官幣社に列し給いました。建武の戦乱中、新田義貞公は戦勝を祈願され良馬と太刀一振りを奉納されました。応仁の乱の兵火で社殿並びに古記録は焼失しましたが、松坂村の農松井藤左衛門によって仮宮が造営され、禁中より修理料を賜わり社殿の再興が行われました。後陽成天皇は内宮・外宮の御宸筆の額を賜いました。慶長年間徳川家康公より神領が加増され社殿の改造が行われました。後水尾天皇・中宮東福門院は修理料・御神宝を賜い、中御門天皇は享保14年4月両本宮の修理に際し神祇官領卜部兼敬卿を奉幣の儀に遣わされました。後桃園院天皇はたびたび御代拝を遣わされ、毎年御紋附き堤燈を賜いました。寛政4年12月女院御所より御初穂奉献、同6年9月泰礼門院及び女院御所中宮より同年11月には内侍所よりそれぞれ御翠簾の御寄進があり、文化6年11月外宮御遷宮、同7年5月内宮御遷宮に際し、光格天皇は御神宝を御寄進されました。その他仙洞御所・青蓮院宮・聖護院宮・梶井宮・桂宮の御参拝・御初穂の御奉献・宝物の御寄進があり、昭和4年10月御大礼調度品が下付され、昭和11年10月久迩宮は、御参拝・御初穂を御奉献、昭和12年2月御献木を賜いました。
現社地の立つ山を天智天皇が「日御山(今は神明山とも呼ばれています)」と名付けたことからも分かるように、この山は、現在でも神聖な山であると位置付けられています。そもそも辺りに色んな山がある中で、この山に聖地を興すに値するだけのものがあったから選ばれた訳であり、神社自体はこの山の頂上ではなく、麓の谷間に近い山腹にあるといった立地から、うっすらとこの神社信仰の淵源が伊勢信仰や高千穂信仰というよりも、神体山的な自然物信仰にあったであろうことが推測されます。また、神明山の尾根続きで、より東奥には大日山という、これも神聖として知られる山があります。別名東岩倉山といい、桓武天皇が京の四方に経典を埋納したという「四岩倉」の1つ「東岩倉」のあった場所だとされています。行基がここに東岩倉寺を開基したといわれます。
日向高千穂の聖跡にちなんで勧請されたのは、天孫降臨を命じた天照大御神と、命じられて降臨した孫の天津彦火瓊々杵尊(アマツヒコホニニギノミコト)を主祭神とする神々です。
主祭神を天照大御神とするせいか、この神社はいつの頃からか伊勢神宮に倣い、内宮と外宮から神域が構成されています。江戸時代より前の時代からそうなっていたことは確実で、内宮に天照大御神ほか、外宮に瓊々杵尊ほかを祀ります。そういうことから、この神社は京都にいながら伊勢神宮を参拝したのと同じご利益を得られる絶好の場所として有名になったそうです。

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▶一の鳥居

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▶民家の中の参道を行きます

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▶二の鳥居

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▶三の鳥居。一の鳥居から歩くこと約300メートル

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▶手水舎

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▶境内配置図。八百よろづの神々の頂点である天照大御神をご祭神としているだけに、外宮・内宮を配してあり、天満宮、猿田彦、厳島、恵比須、多賀の社など伊勢神宮と同じ形式でさまざまな社が配されています

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▶舞殿

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▶外宮(下ノ本宮)。屋根にはV字に見える千木(ちぎ)、鼓のような堅魚木(かつおぎ)が載せられています

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▶外宮ご本殿横から。天津彦火瓊々杵尊・天之御中主神をお祀りしています。京都では神明造の社殿は珍しい形態です

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▶猿田彦神社

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▶恵比須神社・天鈿女神社と朝日泉

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▶一段高くなって奥に内宮(上ノ本宮)

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▶天照大御神・多紀理毘賣命・市寸島比賣命・多岐都比賣命をお祀りしています

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▶内宮本殿は桁行正面1間、背面2間、梁行2間の神明造です

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▶影向石

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▶天照大御神を祀る神社だけあって、内宮からひと登りした所には天の岩戸があります

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▶洞窟の中には戸隠神社の祠がありますが、真っ暗闇で良くは見えません

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▶開運厄よけの神がお祀りされており、「天の岩戸くぐり」の日向大神宮とも云われてます。

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▶社務所の壁に雨に打たれたような朽ちかけた額がありました。以下の文章と共に古びた写真が掲げてありました。
「御神木(名木):清和天皇のお手植えの神木と伝えられています。地上三メートル位の所から七本に分かれ七股の桧(ひのき)と称し名木でした。昭和九年の台風で傷み十年に枯損しました。外宮、内宮の周囲には樹齢二百年以上の桧が数十本あり、荘厳な森でありましたが昭和九年の台風で全部倒れました」とありました

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▶神馬舎

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▶多賀神社・春日神社・五行神社

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▶福土神社

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▶山道をテクテク行きますと鳥居が見えてきます

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▶天満宮

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▶天満宮の奥にある祠。ご祭神不明

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▶厳島神社

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▶神田稲荷神社

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▶厳島神社・神田稲荷神社の向かいの森の中に鳥居がありました。詳細不明

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▶伊勢遙拝所の看板

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▶山の中を行きます。途中看板もないので若干不安になります

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▶それらしき何かが見えてきました

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▶伊勢神宮遙拝所。日向大神宮は京のお伊勢さんと呼ばれているだけあって、大神宮の名にふさわしい広さでした

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2008年7月19日 (土)

出雲大神宮(H20.7.16)

●出雲大神宮(京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地)
出雲大神宮は、国づくりの神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)とその后、三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を主祭神とする由緒ある神社です。ご祭神については、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の三柱とする説や、元々は三穂津姫尊一柱のみであるという説もあります。大国主命については、出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされるが、逆に出雲大社の方が当社より勧請を受けたものとする説もあり、「元出雲」とも呼ばれる。『丹波国風土記』には、「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述があります。
和銅2年(709)10月21日に社殿を造営とあり、それ以前から、存在していたと考えられています。社伝によると、ご鎮座は1万年以上前とも言われています。平安時代の延喜式神名帳には、名神大社、丹波国一の宮と定められ、深い信仰を集めてきました。また、農に関わる行事として、毎年1月には、1年の稲作の吉凶を占い、豊作を祈願する粥占祭(よねうらさい)が行なわれ、毎年4月には、鎮花祭が行なわれ、「出雲風流花踊り」が奉納されますが、これは、古くから日照りの害が多かったこの地域の雨乞い神事を起源としています。
旧社格は国幣中社で、戦後は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっています。旧称を出雲神社。京都バスのバス停も出雲神社になっていました。背後に「千年山」という神体山があることから「千年宮」とも呼ばれています。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで杵築大社と称していたため、江戸時代末までは、出雲神社と言えばこの出雲大神宮を指していました。吉田兼好が徒然草で記した「丹波に出雲と云ふ処あり」の「出雲」とはこの出雲大神宮のこと。
島根県の出雲大社は、日本最古の神社の一つといわれ、出雲信仰の総本社ですが、出雲大神宮の社伝では、この地から出雲の地へ分霊したとも伝えられています。大国主命は、天津神が地上に降臨してくるまで、地上界(葦原中つ国)を束ねる国津神の総領でした。この大国主命は、国津神が降臨してきた後に国を譲り渡し、その代わりとして出雲国(現島根県)の出雲大社に祀られることとなったのでした。三穂津姫命は高皇産霊神の娘であり、国譲りの際に大国主命と結婚した后神です。この2神を祀るため、現在では出雲大神宮は、縁結びに絶大な霊験を発する神社として知られるようになりました。江原啓之さんや李家幽竹さんがパワースポットとして紹介していることでも有名です。

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▶手水舎。

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▶真名井の水。境内から湧き出るこのご神水は、飲めば幸福を招き長寿になるとされています。日本水質保健研究所によれば、古生代の石灰岩層をつたって火山噴火でできたマグマの接触変成岩層から湧き出ている水で、ミネラルがバランスよく含まれる極めて健康によい理想の水であるとするなど地質学的に実証されております。このような水は自然界の中でもほんの一部しか存在しないという事です。

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▶真名井の水のすぐ近くの夫婦岩。

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▶出雲大神宮は平成21年社殿創建1300年記念事業の大改修中でそのための寄付ののぼりです。一番下に李家幽竹さんのお名前がありました。

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▶拝殿からご本殿。拝殿は母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治11(1878)年に官費により造営されました。ここでは10月21日に斎行される例大祭や4月18日の花鎮祭に巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。

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▶現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。しかし近年、三枚の棟札が発見され、そのうち文安2年(1445)11月26日のものは「御願主源右享(京)大夫殿」とある点を考慮し、社殿造営に関して室町期に管領職として幕権を掌握した細川勝元との関係も考えられています。造りは中世神社建築に多く見られる三間社流造平入で、建坪十四坪弱、檜皮葺を施しており、明治39年(1906)に旧国宝、現重要文化財に指定されています。平面は正面に一間の向拝をもうけ、前庇を外陣、身舎を内陣・内々陣にあて、奥に行くに従い格式を高めています。外陣と内陣部分には高欄付きの縁をまわし、身舎側面の中央柱の所に脇障子を立てて見切り、身舎後半部には縁をまわしていません。

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▶御神木 招霊木(オカダマノキ)。暖地に生える常緑高木。京都府には自生種はまだ見つかっていない。オカダマというのは招霊(オギタマ)の意と言われ、神事に用いられてきた。花は香り高く、主に神社に植えられている。材は固く家具などに用います。この木は参拝者に神徳を与え、人々に幸福を授くと伝えられ、神宿る木として崇められてきました。樹齢1500年以上と推定されています。

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▶拝殿前のこの道から磐座・摂社末社にお参りします。

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▶しばらく行くと鳥居が見えてきます。

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▶春日社。御祭神は御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)天兒屋命(アメノコヤネノミコト)。
大国主命による国造りが完了して、皇孫に国譲りの際、天津神の使者として遣わされたのが建御雷之男神です。大国主命は御子神の事代主命に尋ねて決定すると伝え、事代主命はこれに賛同なされました。またもう一人の御子神である建御名方神がいると申し上げた所、その建御名方神は自分の国に来て勝手な事をしているのは誰だ、と建御雷之男神に力競べを挑みます。これに勝たれたのが建御雷之男神で、全国に多々お祀りされる春日社の御祭神として、また敗北された建御名方神は遠く諏訪の地に逃れられ、そこで皇室をお守りすると誓われました。た古来より祭祀を司ってきたのは藤原氏で、その祖と仰がれた天兒屋命をお祀りしています。建御雷之男神と共に春日大社の御祭神で、当宮ではその御分霊を奉斎しております。これは中世、藤原氏の一族、一条(後の西園寺)家が当宮の領家職であった事に由来します。

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▶磐座。ご本殿の真後ろの山道にあります。目に見えない不思議な霊力を与えるとされています。李家幽竹さんのオススメのパワースポットらしいです。李家幽竹さんによると、「ここも、すご~く強いスポットですので、超おすすめデス。 本殿周りも、強いスポットなのですが、なんと言っても、本殿の裏にあるこの磐座がパワーの発生源だと思われます。岩の近くに行けるので、岩にふれたりしてパワーを体感してみて下さい。 」とのことです。

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▶車塚古墳。ご本殿後方の山にある境内古墳。5世紀~6世紀書の前方後円墳と推定されており、後円部の残りは良く、円丘部分が確認できます。また、横穴式石室が保存のいい状態で開口しており、内部の様子が観察できます。 

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▶山の中の参道、境内の至る所でご神岩があります。

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▶稲荷社。

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▶稲荷社の横のみかげの滝。

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▶みかげの滝、横から。

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▶みかげの滝、上から。

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▶上の社。ご祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)と櫛稲田姫尊(クシイナダヒメノミコト)。天照大神のお怒りをかい、高天原から追放された素戔嗚尊は出雲国に天降りまして、手名椎、足名椎神の女である櫛稲田姫尊を八俣大蛇の生贄から守り娶られました。その時に素戔嗚尊が詠まれた「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を」という和歌は最初の和歌と伝えられています。また記紀によれば素戔嗚尊の子、また5世あるいは6世が当宮主祭神の大国主命であると記されています。 上の社本殿は向拝を設けるなど出雲大神宮本殿を模倣した流造ですが、その造りは一間社と珍しい構造で、創建は文化10(1813)年と擬宝珠に刻まれています。

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▶上の社から国祖磐座への道。

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▶国祖磐座(大八洲国国祖神社)。

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▶本殿の後に、美しくそびえる御蔭山そのものが「出雲大神」として、太古より崇められていた御神体山で、この御蔭山は、国常立尊(くにとこたちのかみ)の身体そのものです。御影山は禁足地ですが、この磐座までは登ることが許されています。

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▶神々が御降臨遊ばされたのは御神体山である御蔭山で、出雲大神宮の本殿が立てられる以前から公武を問わず、尊崇を集めてきました。古は千年山とも呼ばれた様に、永続の根本、つまり国の最も優れた中心地でありました。 御蔭山は国祖として知られる国常立尊がお鎮りになられ、『富士古文書』には当宮御祭神の三穂津姫命が御奉仕し、お隠れになられた折にはこの御蔭山に葬られたと記されています。丹波国風土記には、大八洲国国祖神社(おおやしまのくにのみおやのじんじゃ)と記され、また「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。」とあります。

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▶拝殿前にあった大八洲国国祖神社の案内板。

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▶笑殿社。御祭神は、事代主命(コトシロヌシノミコト)と少那毘古名命(スクナヒコナノミコト)。事代主命は当宮の主祭神大国主命の御子神であり、皇孫に対する国譲りに功績のあった神様でありまして、託宣を司る御神徳で著名です。また少那毘古名命は国譲り以前の国造りに際して大国主命に御協力遊ばされ、共に温泉を衆庶に広めて医薬を教え、その完了後は常世国にお移りになられました。

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▶辨財天社。御祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。素戔嗚尊が天照大神への忠誠を示す為、誓約(うけい)が行われ、天照大神は素戔嗚尊の剣を砕いて息吹をお掛けになられたところ、三女がお生まれになられました。宗像大社にはこの三女神がお祀りされており、その一人の御分霊をお祀りしています。

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▶社務所後ろの祠。ご祭神は不明。

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▶西門。

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▶西門をでたところにある出雲庵という手打ちお蕎麦屋さん。そばの実を石臼で挽いたそば粉に当地の名水を加えて打ったそばは、コシと風味が絶品で非常に美味しかったです。ドクターコパさんや五木寛之さんなどの有名人の写真がいっぱいありました。

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▶出雲大神宮御朱印。

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2008年7月18日 (金)

錦天満宮から八坂神社御旅所・冠者殿社へ(H20.7.16)

●錦天満宮(京都市中京区新京極通四条上る中之町537)
錦天満宮の歴史は長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として創建されたのに始まると言われています。やがて、天正15年(1587年)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転します。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残されました。現在幅員3メートルの錦小路は平安時代には幅員12メートルもあったそうです。
錦天満宮は俗に錦の天神さんと呼ばれ、京の台所・錦小路を東に突き当たったところにあります。にぎやかな通りにあって、周囲に負けないくらい提灯を灯した明るい神社です。新京極通に面し、錦市場の端にあるという場所柄、学問だけでなく商売繁盛にもご利益があると言われていて付近の人々の信仰も厚い。

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▶新京極通に面し、錦市場の端に鎮座されています。

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▶寺町京極に面してこの一の鳥居があるのですが、隣のビルの2階に鳥居の端が建物に食い込んでいます。区画整理の際に道路の幅だけみて、鳥居の幅を考えなかったようです。昔なら屋根が低くてどうという事もなかったのでしょうね。

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▶神牛の像。多くの天満宮にはつきものなのですが、これはご祭神である菅原道真公が丑年に産まれた事に由来しているのだとか。道真公が太宰府で亡くなったとき、そのご遺体を牛車で運ぼうとしたのですが、途中で牛がどうしても動かなくなり、これを道真公のご意志と解釈してその地に埋葬しました。そこが現在の太宰府天満宮となった事から、牛を道真公の使いとするのだそうです。この神牛の像の頭や腰の色が変わっているのは、この像をなでるとその部分が良くなるとされているからです。大勢の人の願いが籠もっているのですね。

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▶牛の奥にある苔むした石組は、京都の名水にも選ばれたという「錦の社御香水」とも「錦の水」と呼ばれる名水が湧き出ています。これほど便利な場所にある名水も珍しく、遠くから汲みに来る人も多いようです。保健所お墨付きの飲用できる名水。

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▶手水舎。こちらも「錦の水」が湧き出ています。

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▶人が近づくと、神楽が鳴り出し獅子舞が始まり、お金を投入すると獅子がみくじを選ぶという「からくりみくじ」。金みくじ・和英文みくじ・和英文花みくじ・恋みくじ・こどももくじ・よろこびみくじの6種類あります。

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▶拝殿。

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▶拝殿内部。

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▶塩竈神社。

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▶日の出稲荷神社。

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▶白太夫神社。

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▶七社(八幡神社・床浦神社・市杵島神社・熊野神社・事比良神社・竈神社・恵美須神社)。


●八坂神社四条御旅所・冠者殿社(京都市下京区四条通寺町東入ル)
一般的に祇園祭といえば豪華で見応えのある7月17日の山鉾巡行ことをさしますが、祇園祭とは八坂神社のお祭りで7月1日に祭りの無事を祈る吉符入りの祭事から始まり7月29日の神事済奉告祭まで約1ヵ月間行われるお祭です山鉾巡行の日(7月17日)に山鉾が道を清めた後夕方に八坂神社の神様を神輿にのせ、八坂神社御旅所まで運ぶという神幸祭が行われます。御旅所とは、仮の宮または離宮ともいいます祭礼の際、本宮を出た神輿を迎えて仮に祀って置く場所のことをいいます。八坂神社御旅所は日本で二番目に生誕したという歴史ある新京極商店街の南側にあります。
   
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▶錦天満宮を出て、新京極商店街を下り、四条通りを越えると八坂神社御旅所があります。

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▶八坂神社御旅所東御殿。

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▶写真の八坂神社御旅所西御殿の左側、普段は「京の品 京の心 四条センター」というおみやげ屋さんがこの期間は御旅所に変身します。

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▶おみやげ屋さんが変身した御旅所には神様が休憩に来られるまでは、祇園さんのご祈祷済のグッズを販売しています。そこで前日の夜に「ちまき」を手にいれました。袋の「ちまき」についての説明文には次のように記載されています。
祇園祭の「ちまき」は洛北深泥ヶ池(みどろがいけ)付近の農家の人々が山から笹をとり中味なしで巻いて作る。「ちまき」の中味のないのが本来のものである。山鉾巡行に際して鉾上よろ囃子方が投げる「ちまき」を見物衆は争って之を拾い持ち帰って翌年の祇園祭に新しい「ちまき」と取替える迄の一年間門口につるし疫病難除とする。これに因んで御旅所及び社頭に置いて「ちまき」を授与している。
門口の淡い緑の「ちまき」は“おはらい”の信仰から生まれたものであると同時に京都の風物詩でもある。元来「ちまき」は和名「茅まき」で茅(ち=かや)に特別の霊性を認めた日本古来の考え方にたっていて厄難消除の為、門口につるしたものである。従って自らの罪けがれを祓い日々の行ないを清く正しくして神のみ心に叶う生活をする心がけのよすがである。

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▶冠者殿社は、八坂神社御旅所の西端横に立つ八坂神社の境外末社で、八坂神社のご祭神の素戔鳴尊の荒魂が祀られています。素戔鳴尊は、天照大神に対して身の潔白を誓約された神さまで、誓文払いの祖神として信仰されています。官者殿社と記されることもあります。
俗説には平家が滅びた後、源義経を暗殺するために源頼朝によって遣わされた討手・土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)をも祀ると伝わります。源頼朝の命を受け義経の討っ手となった人物が土佐坊昌俊。土佐坊は熊野詣を装って上洛し、義経には本心とは裏腹に「自分は紀州熊野権現への参詣の途中に立ち寄ったもので、君に二心はない」と誓紙七枚を起請したと云います。三枚は八幡宮、一枚は熊野権現、三枚は誓いのしるしとして灰にして飲み下したとか。ところが、ところが、誓文をしたためながらも神をも恐れぬ所業で、夜陰に紛れ、義経の堀川邸を取り囲みます。土佐坊は奮戦するも義経の前に敵ではなかったようです。これが世に云う「堀川夜討ち」です。死にあたって土佐坊は「この後、忠義立てのために偽りの誓いをする者の罪を救わん」と願をかけたと言います。
そこからで商売の駆け引き上、客にうそをつく人々の守護神とされました。この事から冠者殿社には「起請返し」「誓文払い」の信仰が生まれたようです。今ではバーゲン、セールと云う言葉を使うことが多くなったですが、かつて商店などでは「誓文払い」と銘打って、蔵ざらえ、在庫一掃の安売りが行われていました。これも平素の商売上のかけ引きでついた嘘を祓い清めてもらうとの意味合いがありました。また毎年10月20日には、商人や遊女などが、平素商売の駆け引き上、客にうそをついた罪を祓い清めてもらうための参詣が行われ、祭として故事を伝えます。
それもいつしか、愛、恋の嘘も清めてもらえる神様へともなってゆき、幕末の頃、祇園や先斗町など花街の遊女達は、馴染みの客に愛の証として偽りの恋文、証文を書いたこと、嘘をついたことを清める参詣が行われるようになり、この参詣は一切無言で行わなければ願いは破れるとかで「無言詣」と呼ばれるようになります。「無言詣」は神幸祭の日から24日まで八坂神社御旅所に神様がいらっしゃる7日間祇園や先斗町の芸舞妓さんがはじめたというちょっと変わった願掛けです。四条大橋のたもとから八坂神社御旅所まで毎夜続けて7日間詣でると願い事が叶うといいます。その際守らなければならないことがひとつだけあります。決して口を聞いてはいけません知人に逢っても、何があっても無言で詣でなければなりません。これも今は祇園祭の頃、御旅所に神輿が留まる七日七夜にわたり行われるようにもなっています。
繁華街の中にある小さな社ですが、奥深い歴史があるのですね。

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2008年7月 5日 (土)

吉田神社・宗忠神社(H20.6.27)

●吉田神社(京都市左京区吉田神楽岡町30番地)
貞観元(859)年、藤原山蔭卿が平安京の都の守護神として、藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請し、都の東北(表鬼門)に位置する吉田山に創建されました。この吉田山は、別名「神楽岡」と呼ばれ、古くから霊域として崇められ、東山三十六峰の一つにも数えられています。
後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになりました。永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列されました。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田氏)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として1484年、境内に末社・斎場所大元宮を建立しました。近世始めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。吉田家は全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
また、山の中腹には、全国の神を祀る斎場所大元宮があります。この御殿は八角形であり、その造りは種々の特異な形式を持ち、その総ては、吉田神道の原理に基づき創建されたと伝えられ、日本国中の神のご加護に預かれる。日本国中(3132座)の神を祀る大元宮は、全国に類を見ない荘厳雄大な建物であり、重要文化財に指定されています。
当神社に仕えた吉田家は、近世まで神社界の総家と仰がれ、全国の神主に宗源宣旨、裁許状を授けた。「徒然草」の吉田兼好もその一門です。

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▶京都大学前にある石標。

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▶一の鳥居。

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▶この参道石段を登り、左手に本宮が見えます。

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▶夏越の大祓の茅の輪の準備でしょうか?

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▶本宮前、なにか謂れがある場所なのでしょうか?

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▶本宮前の御神木。

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▶本宮拝殿。

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▶本宮拝殿からご本殿。

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▶神楽岡社。祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)、大山祇神(おおやまづみのかみ)、高オカミの神(たかおかみのかみ)の三神。鎮座の年代は詳でないが、延喜式に霹靂神、神楽岡に坐すと記してあり、神楽岡地主の神、又雷除の神として崇敬厚く、同町の氏神です。

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▶若宮社。天之子八根命の御子で天孫のために天二上に上りまして御膳水を請うて献奉り給うた水徳の神で、初め本社の第二殿と第三殿の間に無社殿で祭られてあったのを、後醍醐天皇延元元年、吉田兼熈が社殿を建て慶安元年(1648年)現地に造営、明治10年摂社に定められました。

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▶神鹿像。昭和32年、吉田神社御鎮座千百年記念事業の一つとして、境内の一角に鹿を遊ばせたが、鹿の増加と周辺地区への配慮から打ちきられ、その後、昭和60年、神鹿として鋳造されました。

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▶国歌君が代に詠まれた「さざれ石」。ここに置かれているさざれ石は、竹下内閣の時の「ふるさと創生」記念事業の一環として、岐阜県春日村から奉納されたもの。

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▶菓祖神社。祭神は田道間守命、林浄因命のニ神を祀る。昭和32年、京都菓子業界の総意により創建されました。境内を菓子業者の石柱が囲んでいます。

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▶菓祖神社拝殿。

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▶菓祖神社ご本殿。

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▶山蔭神社。吉田神社創建に貢献された藤原山蔭卿を祀る社で、山蔭卿は調理・調味づけに秀でたと言われており、料理飲食の祖神として、多くの料理店や業界の方々等の信仰を集めております。昭和32年全国の料理関係者が創建に協賛しました。

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▶三社社。祭神は多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津毘売命、金山毘古命、金山毘売命、菅原神の六神を祀る。初め吉田家の邸内に鎮祭してあったのを仁孝天皇弘化元年(1844年)現今の地に遷座。

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▶神龍社。通称100段と呼ばれるこの石段を登りつめたところに、南を向いて鎮座されています。

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▶でも、お留守とのことでしたのでお参りはしませんでした。

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▶神龍社前の神池のほとりの祠。祭神不明。

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▶今宮社。祭神は、大己貴神、大山祇神、健速須佐之男命。古くから木瓜大明神と称し吉田町の産土神です。

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▶祖霊社。

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▶斎場所大元宮。「大元宮」は節分詣発祥の社とされており、毎年2月2日~3日には節分の神事が行われることで有名であり、厄除け祈願の参拝者が多数訪れます。大元宮の祭神は天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)とされ、全国の神様3,132のご神体を祀っています。

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▶大元宮中門。

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▶斎場所大元宮ご本殿。八角形の社殿が特徴とのことですが、門が閉まっていて中をうかがうことはできませんでした。中門の穴から撮影しました。

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▶竹中稲荷社への参道。

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▶竹中稲荷社へ山道を通っていくことにしました。でも、迷ってしまいました。結局、元の鳥居まで戻ってから行きました。

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▶竹中稲荷社。祭神は宇賀御魂神、猿田彦神、天鈿女神の三神を祀る。鎮座および由来は不明。古紀に「在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍(かたわ)らに卜(ぼく)す云々」とあり、天長年間既に社殿の在った事が知られている。

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▶天満宮。竹中稲荷社の西側に鎮座。地福院に奉祀されてあったのを嘉永五年(1852年)現地に遷座。

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▶竹中稲荷社の裏には塚や祠が多数祀ってあり,独特の雰囲気を醸し出していました。人影はなくひっそりと静まりかえっており、夜であればとんでもなく怖いと思います。吉田神社の案内図にも記載されておらず、詳細は全く不明です。

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▶吉田神社御朱印。


●宗忠神社(京都府京都市左京区吉田下大路町63)
黒住宗忠は嘉永3年(1850年)に歿し、安永3年(1856年)に朝廷から「宗忠大明神」の神号が与えられた。文久2年(1862年)、宗忠の門人の赤木忠春らが、吉田神社より社地の一部を譲り受けて宗忠を祀る神社を創建しました。慶応元年(1865年)には朝廷の勅願所となり、、皇室や二条家、九条家から篤い崇敬を受けました。明治時代には県社に列格。
流造のご本殿は明治45年(1912年)に改築されたもので、また拝殿も昭和12年(1937)に改築されたものである、ご本殿の北には、二条家より遷された天照大神を祀る神明宮があります。他に、白山比咩大神を祀る白山社、赤木忠春(赤木忠春神)を祀る忠春社があります。

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▶神井戸。境内に この神井戸の由来が書かれていました。
神社が鎮座して間もない頃、境内に井戸を掘ることになった。この土地は山の上であることから、人夫たちが「掘るのは掘るが、水が出ませんよ」と言うのを、とにかく三十尺(約10m)だけ掘らせました。案の定、水は一滴も出ません。さて、赤木忠春(黒住宗忠の高弟で当社建立の第一の功労者)は、人夫たちに「明日の朝に来て、見てください」と告げ、その夜ご神前に供えた御神水を空井戸に注ぎ、一心に祈りました。翌朝、人夫が小石を井戸に投げ込むと「ドボン」と音がします。水が涌き出ていたのです。それ以来、コンコンと湧き続けましたが、神社に何かご神慮に適わぬことが起こると水が濁ると言われてきました。まさに神楽岡の霊水として珍重されている。

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▶拝殿。

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▶拝殿の中。手前が上社(神明宮)で、奥が黒住宗忠が祀られているご本殿。

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▶ご本殿。

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▶神明宮ご本殿。天照大神を祀る。

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▶忠春社。祭神は赤木忠春神。宗忠大明神の高弟で美作(岡山県久米郡)の生まれ。宗忠大明神の大道宣布のため、幕末の動乱の京師に勤皇の大儀を貫き、国事のためにも寄与したとされる。

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▶白山社。加賀国の霊峰白山を神体山とする白山比咩大神を祀る。この土地を鎮護する神として、古くから鎮座する。

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2008年6月28日 (土)

白峯神宮から幸神社(H20.6.27)

●白峯神宮(京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地)
奈良時代の淳仁天皇、平安時代末の崇徳天皇を祀る。功績は厚いながらも非業の死を遂げた両天皇の霊を鎮めるために創建されました。明治天皇の命で創建された比較的新しい神社です。祭神は、保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で歿した「崇徳上皇」と藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流されてそこで亡くなった「淳仁天皇」。
幕末の動乱期、孝明天皇は讃岐の白峯陵に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、明治元年(1868)8月、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建。のち淳仁天皇も合祀されました。昭和15年に官幣大社に昇格。
白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地である。摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在では「まりの神様」として崇敬されサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られます。平成13年には、蹴鞠の碑が建立され、球技の上達を願う中高生らが後を絶たないという。サッカーワールドカップのフランス大会で日本が初出場した際に新聞やテレビで紹介されたのをきっかけにして、京都以外からも多くの人が参拝に訪れてます。

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▶今出川通りに面した南向きの門

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▶夏越の大祓の茅の輪の準備がされていました。

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▶京都は応仁の乱をはじめ、幾度も戦乱や火災に遭っているので、中心部は樹齢500年を越す木はほとんど存在しない。この樹齢800年の小賀玉の御神木は近隣の住民が身を挺して火災から守ってきたとされ、現代まで生き残ってきた市街地では貴重な老木です。この木が京都では最大のもので、京都市指定天然記念物に指定されています。

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▶「三葉の松」は全国でも珍しく、その姿から「夫婦和楽・家内安全」を象徴して、その松葉は黄金色になって落葉し、身につけると「金運」のご利益があるところから別名「金銭松」ともいわれています。

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▶昭和天皇お手植えの松。

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▶左近の桜。

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▶拝殿でしょうか?

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▶こちらが拝殿でしょうか?

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▶ご本殿。

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▶ご社殿にはサッカーやバレーボールの日本代表チームやJリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られます。

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▶社務所前にも奉納されたボールが展示されていました。

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▶地主社。精大明神は、平安末期に蹴鞠の宗家飛鳥井家の邸内社として祀られていましたが、当神宮創建後に地主社となり、左・右御前の諸神様を合祀して現在に至るまで崇敬されています。

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▶地主社にもボールが奉納されていました。

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▶蹴鞠の碑。石碑中の鞠は「撫で鞠」と呼ばれます。球運を授かりたい場合、精大明神を参拝して「撫で鞠」を1回撫でるといいそうです。

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▶鞠庭。蹴鞠は日本の伝統的球技。7間半(12.7メートル)四方の鞠庭(コート)で、8人の競技者が鹿の皮で作った球を落さぬよう蹴りあう古式豊かな行事。御所の伝統芸能として伝えられ、現在、京都蹴鞠保存会により継承されている。

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▶御祓所。

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▶武道の神 伴緒社。

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▶伴緒社の前の御神木。

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▶潜龍社。この潜龍社は、昭和32年11月23日の当神宮お火焚祭斎行中に火炎の中に出現せられたのをもって、地元有志相寄って、御社を建立しこれに祀ったに始まります。

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▶潜龍社手前にある潜龍井。この御祭神の鎮まり坐す潜龍井から湧き出ずる水を飲めば、家系にまつわる諸々の悪縁を断ち、盗難災難除、病気平癒、事業隆昌に霊験あらたかな神として崇敬も篤く崇められて来ました。

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▶白峯神宮御朱印。


●幸神社(京都市上京区寺町今出川上る西入る幸神町303)
幸神社は、「さいのかみのやしろ」と読みます。この幸神社は、日本で最初の縁結びの神社であるということです。その起源は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年御再興、桓武天皇延暦十三年平安京の鬼門除守護神として御造営あらせられるとあり、都ができると、平安京の鬼門の東北の神を担い、同時に奈良の都以降、都の北東に『さいのかみ』を奉るという風習があると述べられている。
幸神社は猿田彦大神と天鈿女命を祀ります。猿田彦大神は日本神話の天孫降臨(天上界の天津神が地上に降臨したという伝承)の際、その道案内を果たした国津神(地上界の神)で、猿田彦神をまつる総本山は三重県鈴鹿市の椿大神社です。椿大神社もだいじんじゃではなく、おおかみやしろと読みます。一般には、道の神や交通安全の益がある神様として知られています。ここでは相殿の神である天鈿女神(あめのうずめのかみ)と結ばれたお話から縁結びとなったと言われています。称から由来して、幸を運ぶ御利益が高い社として人気があり、社殿には所狭しと多くの絵馬類が吊るされています。
そして境内に祀られる『御石さん(おせきさん)』と呼ばれる陽石は、触ると祟りを受けるが丁重に拝むと良縁に恵まれるといわれています。また『蘇我物語』には、この神社で誓った男女の縁は、永遠に朽ちることがないとも歌われています。 周辺地域は、平安京以前は出雲氏一族が本拠地としていたことから、主祭神の猿田彦大神は出雲路の道祖神でもありました。歌舞伎踊りの創始者として有名な出雲の「おくに」は,出雲路辺りの地で生まれ、一時期、巫女として使えていたといいます。
そして、幸神社には、この猿田彦大神の御神石と呼ばれる祭石が、狭い境内の端に安置されています。社殿などは猥雑活気な近世の風情を反映した造りとなっているのですが、この御神石のあるエリアだけは、非常に素朴な祀りのかたちとなっています。

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▶今出川通から寺町通を上がったところにある石標。

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▶鳥居の端に『出雲路 幸神社』と記された石碑があります。

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▶一間社流造のご本殿は覆屋で見えない。

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▶おびただしい数の絵馬がかかっています。恋の祈願や縁結びの祈願が多い。なぜこの場所に掛けられているのでしょうか?こういうのは初めてです。

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▶右から三天社。稲荷社。竃神社。天満宮。淡嶋社。春日社。厳島神社。稲荷神社。孔雀宮。

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▶石神さんと疫神社。結界の中に、この石神が、おそらく狂言「石神」に登場する石神ではないかと考えられている。この狂言は夫と別れるのを石神に決めてもらうため、石を持ち上げられるかどうかをつづるもの。境内では石神は安置され、この石に触れると祟りがあると伝えられていて厳重に祀られています。

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晴明神社(H20.6.27)

●晴明神社(京都市上京区晴明町806)
寛弘4年(1007年)に一条天皇の勅令により創建された平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社です。一条戻橋のたもと(北西)にあった安倍晴明の屋敷跡に鎮座。
平安時代の陰陽師・安倍晴明は近年、荒俣宏氏の『帝都物語』や夢枕漠氏の『陰陽師』(岡野玲子氏によりコミック化も)などが火付け役になって、にわかにクローズアップされています。安倍晴明は今やブームの人。安倍晴明公は孝元帝の皇子大彦命の御後胤で幼い頃から非常に賢明な方で多くの道に秀でておられました。特に天文暦学の道を深く極め、神道を思いのままに操る霊術を身につけられておられてました。成人になられた後には天文陰陽博士として活躍し、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条、の六代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。そして、村上帝に仕えられておられた時には進んで唐へ渡り、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれます。帰国して後、これを元に日本独特の陰陽道を確立。朝廷の政治、日本人のさまざまな生活の規範を決められました。今日、私達の日常生活の基準となる年中行事や、暦術、占法は皆この時に創られました。
平安京随一の陰陽師として知られた安倍晴明ですが、その割には生涯官位は低く、それを惜しみ、晴明の功績をたたえるために造営されたのがこの神社でした。記録によるとその社域は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売に広がっていたといいます。後に秀吉の都造り政策や度重なる兵火などで縮小されてしまったが、氏子たちが中心となり、各式年祭毎に社殿が整備改修されました。現在の本殿は昭和3年の御大典記念事業として新築されたものです。境内や門前には魔除けの印である星の神紋「晴明桔梗」が掲げられ、平成7年に架け替えた際の橋の親柱を使って、小さな一条戻り橋も復元されました。晴明公についての言い伝えを絵と文章で分かりやすく説明する顕彰板などがあります。

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▶一体どの看板が正しいのでしょうか?

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▶鳥居の社額にも御神紋である五芒星が書かれています。

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▶旧 一条戻橋。平成7年まで実際に使われていた親柱でミニチュアを再現されています。
一条戻橋の名の由来は、918年(延喜18)、天台の修験行者 浄蔵が大峯山に修行で通っていたころ、漢学者である父 三善清行が死に、親の死に目に会えなかった息子の浄蔵が駆けつけ、この橋で棺と対面。浄蔵は父の棺に向かい持念すると、清行はたちまち蘇生し、ともに家に戻ったのでそれで戻橋という名前が付いたとされています。源氏物語にも「ゆくはかへるの橋」と書かれ、和泉式部も歌に詠んでいます。平家物語では、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした伝説などこの橋には様々なエピソードが残っている。また、千利休が豊臣秀吉の怒りをかうきっかけとなった大徳寺金毛閣の利休像の首、さらに切腹した利休自身の首がみせしめにさらされたのもこの橋でした。
現在の一条戻橋は、晴明神社から100メートルくらい南にいったところの堀川に架かっています。今は水がなく、コンクリートの川底が見えているが、その昔はかなり水かさもある急流だったようです。なお、戻橋の位置は、平安京の頃から現在まで変わっていないことが確認されています。
その名から、戻橋の縁起を担いで、旅に出る人はこの橋を渡って出かけました。兵士が戦地に赴く際も無事に帰ってこられるようにとこの橋を渡って出征したという哀しい歴史もこの橋には刻まれています。逆に、京都の嫁入り前の娘はこの橋に近づかないそうです。
「戻橋に行ってから晴明神社に行くのはいいけれど、その逆をしてはいけない」有名な話なのだそうですが、私は知りませんでした。

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▶千利休屋敷趾えお記した石碑。数年前に、江戸時代の茶書から、当神社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」に利休屋敷があったことが確認されたため、利休の遺徳をたたえ茶道武者小路千家 家元が石碑を奉納されました。境内の「晴明井」の水は利休が使ったとされています。

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▶手水舎。手水鉢が小さくてかわいいです。

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▶晴明井。山城名泉の一つで病気平癒の水としてご利益がある水が湧き出ています。立春になると神職が井戸の上部を回転させ、取水口がその年々の恵方を指す仕組みになっております。千利休が茶の湯に使ったとの言い伝えもあります。

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▶御神木の楠。

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▶晴明公についての言い伝えが絵と文章でわかりやすく説明されています。その下には桔梗が植わっており7月頃~9月頃まで、可憐な花をいくつも咲かせます。因みに桔梗の花言葉は「誠実の愛」です。

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▶厄除桃。陰陽道では桃は魔除厄除の果物とされているようです。

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▶拝殿。五芒星が随所にあしらわれています。

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▶拝殿からご本殿。

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▶末社 齋稲荷社。倉稲魂命(うがのみたまのみこと)他、二柱を祀ります。晴明公は稲荷神の生まれ変わりとの言い伝えから当祀られるようになったとのことです。

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▶末社 齋稲荷社ご本殿。

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▶ご本殿から堀川通。

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▶授与所に有名人の絵馬が数多く奉納されていました。

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▶晴明神社御朱印。

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2008年5月17日 (土)

八坂神社から下鴨神社(賀茂御祖神社)(H20.5.16)

●八坂神社(京都市東山区祇園町北側625番地)
八坂神社の歴史は、社伝によれば平安建都の約150年前の斉明天皇2年(656)と伝えられています。都の発展とともに、日本各地から広く崇敬を集め、現在も約3千の分社が日本各地にあります。
八坂神社はながらく、「祇園社」「感神院」などと称されましたが、明治維新の神仏分離にともなって、「八坂神社」と改称されました。
八坂神社すなわち祇園さんの御祭神は、スサノヲノミコト(素戔嗚尊)・クシイナダヒメノミコト(櫛稲田姫命)・ヤハシラノミコガミ(八柱御子神)です。

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▶重要文化財 西楼門。平成19年11月30日に竣功されました。

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▶露店が並ぶ参道。

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▶重要文化財 ご本殿。

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▶八坂神社御朱印。御朱印も祇園社になっています。

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▶疫神社。

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▶太田社。

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▶北向蛭子社。

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▶大国主社。

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▶大神宮社。

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▶悪王子社。すごい名前ですね。

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▶美御前社。「うつくしごぜんしゃ」と呼びます。

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▶美御前社の前にわき出ている美容水。

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▶日吉社

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▶刃物神社。

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▶五社。

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▶十社。

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▶厳島社。

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▶大年社。

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▶ご神水。

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▶ご神木。

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▶能舞台。

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▶南楼門と手水舎。


●下鴨神社<賀茂御祖神社>(京都市左京区下鴨泉川町59)
正式には「賀茂御祖神社(かもみおやじんじゃ)」とよびます。京都は鴨川を中心に町づくりがなされており、鴨川の下流にまつられているお社というところから「下鴨(しもがも)さん」とか「下鴨神社(しもがも)」と親しくよばれています。
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▶京阪出町柳駅からこの参道を行きます。

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▶下鴨神社は世界文化遺産です。

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▶糺の森のなが〜い参道。

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▶糺の森の中のご神木。

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▶君が代にうたわれたさざれ石

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▶国宝 ご本殿。

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▶下鴨神社御朱印。

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▶ご本殿前の言社(えとの守り神)重要文化財。

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▶三井神社

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▶解除所。

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▶出雲井於神社。

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▶愛宕社・稲荷社。

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▶印納社。

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▶縁結びの神様として有名な相生社。

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▶二本の木が途中から一本に結ばれている連理の賢木。

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2008年5月10日 (土)

貴船神社から鞍馬寺(H20.5.7-8)

ゴールデンウィーク明けの5月7日から8日に貴船から鞍馬に行ってきました。約9ヶ月ぶりの貴船神社参拝です。
夕方17時30分ごろの薄暗くなりかけた頃に貴船口駅おりて、テクテクと30分ほど参道を進みます。バスは16時20分貴船口発が最終でした。

●貴船神社(京都市左京区鞍馬貴船町180)
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▶本宮の正門は開いていました。どうやら20時まで開門しているみたいです。

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▶貴船神社本宮のご本殿に到着したのは18時ごろ。すでに社務所は閉まっていて、私以外誰も参拝客はいませんでした。

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▶貴船神社本宮から奥宮へ。だんだんと凄みを増してきます。

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▶日は完全に沈んでいないのに、この暗さです。

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▶貴船神社奥宮は正門は工事中のため仮参道から入ります。

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▶日が沈んだあとの貴船神社奥宮はなかなか凄みがあります。

▶あたりはもう真っ暗で人影もなく、以前に朝に訪れた奥宮とは全く違う空気でした。さすがに、薄気味悪いので結社に行くのはあきらめて、予約していた宿に行きました。奥宮から一番近い宿です。
http://www.hyoue.com/

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▶貴船の中では比較的お安く泊めて頂けて、料理もおいしかったです。女将さんも気さくな方でアットホームなお宿でした。ビールを結構飲んだ後、日本酒を4本も。飲み過ぎました。

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▶朝食は川床でいただきました。私一人でした。

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▶朝の貴船神社。非常にさわやかです。やっぱり貴船神社は朝にお参りするのがいいですね。

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▶懐かしい郵便ポスト

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▶貴船神社本宮境内。

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▶貴船神社御朱印

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▶貴船神社拝殿を横から。

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▶本宮境内末社。貴船神社には過去何度か参拝していましたが、今まで鎮座されているのも気付きませんでした。

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▶有名な水占いおみくじ。末吉でした。

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▶貴船神社本宮から奥宮へ。昨夜とは全然違う雰囲気です。

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▶恋の道と言われているらしい。

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▶貴船神社奥宮到着。

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▶朝の貴船神社奥宮。夜とまったく違う空気です。

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▶奥宮の正門は修復中。非常にきれいになっていました。もうすぐ工事も終りそうな感じでした。

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▶奥宮から結社へ

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▶ご神木

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▶奥宮から結社の間に鎮座されている末社

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▶結社に到着。

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▶結社も工事中でした

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▶本宮でいただいた結び文を結社で結ぶところ。昔はご神木に結んでいたらしい。

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▶天の磐船(昨夜、私が泊った宿のお部屋も磐船でした)

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▶結社の和泉式部歌碑

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▶石碑


●鞍馬寺(京都市左京区鞍馬本町1074)
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▶貴船から鞍馬へ向かいます。

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▶登りの結構きつい山道が続きます。

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▶変わった木でした

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▶所々にお地蔵さんや社があります。

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▶奥の院魔王殿に到着。登りで20〜30分ぐらい歩きました。夏場だったらちょっとつらかったかもしれません。貴船からの道はほんのり涼しく快適でした。

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▶木の根道が続きます。

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▶義経堂・僧正が谷不動堂到着

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▶まだまだ登りがあります。

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▶義経公背比石

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▶ちょっと縦走路からそれて大杉権現社に向かいます。

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▶大杉権現社。

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▶ここからは下りが多くなります。

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▶遮那王堂

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▶義経公息次ぎの水。枯れかけているようでした。

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▶与謝野鉄幹・晶子歌碑と冬拍亭。鞍馬寺まであとすこし。

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▶釣鐘と八所明神。マップにも載っていなかったのですが、横道に入ると釣鐘がありました。生まれてはじめて釣鐘をたたきました。

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▶鞍馬寺につきました。鞍馬から貴船に向かう方々の入り口です。

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▶鞍馬寺金堂

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▶鞍馬寺御朱印

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▶鞍馬寺本殿の横に鎮座されている閼伽井護法善神社。鞍馬寺の境内にある神社はどの神社もすべて榊だけでなくお花もお供えされています。

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▶九十九折りの道を行きます。

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▶巽の弁財天

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▶貞明皇后御息休所跡

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▶ケーブルカーに乗らずに鞍馬駅まで歩くことにしました。

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▶双福苑(大黒様・恵比須様)

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▶義経公供養塔

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▶川上地蔵堂。

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▶由岐神社。またしても工事中でした。しかも境内に入れませんでした。

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▶由岐神社拝殿とご神木。

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▶魔王の滝

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▶吉鞍稲荷社

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▶放生池。

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▶普明殿。ケーブルカーの乗り場にもなっている。ケーブルカーは100円らしい。

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▶鞍馬寺仁王門

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▶鞍馬寺入口。鞍馬寺金堂からでもだいぶん下り坂を歩いてきました。これだけの道を登るのは相当しんどいかも知れません。貴船から鞍馬に抜ける方がだいぶん楽だと思います。

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▶鞍馬駅に着きました。

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▶駅前でくらま温泉の送迎バス発見。温泉で汗を流して来ました。平成3年に秋篠宮殿下も入湯されたらしい。

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