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2010年2月の4件の記事

2010年2月 9日 (火)

坐摩神社(H21.5.20)

●坐摩神社(いかすりじんじゃ)(大阪市中央区久太郎町4渡辺3 )
坐摩神社は正式な読み方は「いかすりじんじゃ」だが、通称は「ざまじんじゃ」とで呼ばれています。摂津国一の宮として、生井神(いくいのかみ)・福井神(さくいのかみ)・綱長井神(つながいのかみ)・波比岐神(はひきのかみ)・阿須波神(あすはのかみ)の五柱を祭神としてお祀りしています。5柱を総称して坐摩大神(いかすりのおおかみ)と申します。
生井神は、生々活発の井水の神。福井神は、幸井・栄井で、繁栄の井水の神。綱長井神は、釣瓶を吊す綱の長くして、深く清い井水の神。阿須波神と波比祇神は、竃神とも云われ、『古事記』によると、大歳神の子神。波比祇神は、屋敷神と考えられ、庭の神。阿須波神は、足場・足下の神。足の神であり、旅の神とも言われています。
平安時代の延喜式の摂津国西成郡唯一の大社で神功皇后が新羅より帰還の折、淀川南岸の大江、田蓑島の渡辺の地(現在当社の御旅所がある中央区石町付近:天満橋の西方)に奉祀されたのを始まりとされています。天正10年(1582)豊臣秀吉の大坂城築城に当り、替地を命ぜられ、寛永年間(1624年~44年)に現在地に移転。現在の坐摩神社の旧地名を渡辺町というのも元の地名も併せて移したものであり、全国の渡辺・渡部姓の発祥の地とされています。明治5年、府社に列し、明治11年に官幣中社に列せられました。
「坐摩(いかすり)」の語源として諸説あるらしいですが、土地または居住地を守るという意味の「居所知(いかしり)」が転じたとのことです。

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▶大小3つの鳥居が横に組み合わさった珍しい三鳥居

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▶手水舎はいまいちでした

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▶拝殿

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▶拝殿とご本殿。昭和11年官幣中社に列せられた際に造営された社殿は、先の大戦の空襲で焼失。現在の社殿は昭和34年に鉄筋コンクリート作りで、戦前の姿のまま再建されました

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▶明治天皇聖躅。明治元年の明治天皇大阪行幸の際、ご親拝されて相撲を天覧された

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▶稲荷神社(龍丸稲荷大明神・黒龍稲荷大明神 )。現在社殿工事中で、ご神体は坐摩神社本殿にいらっしゃるとのことです。

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▶陶器神社。嘉永年間(1848〜1853)愛宕山将軍地蔵を祀ると伝えられ、火防の神として崇敬が厚く、陶器商人からは守護神と崇められていました。

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▶陶器神社(大陶祇神・迦具突智神)。昭和46年再建。
この神社は戦前は北は筋違橋から南は四ツ橋迄の両側に二百数十店もの陶器店が軒を並べ、戦後は西横堀川に再建された陶器問屋の守護神といわれ、当初は西区靱南通一丁目にあったが、明治40年、市電敷設の道路拡張のため、現在の地に移転されました

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▶現在社殿工事中で、ご神体は坐摩神社本殿にいらっしゃるとのことです。

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▶陶器神社社殿両脇の灯篭は清水焼

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▶皇太子殿下ご成婚奉祝記念の燈籠。これも陶器で作られています

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▶招霊の木

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▶神倉でしょうか?

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▶禊所。境内に大阪府神社庁があり、神社庁のビルが当社の社務所を兼ねています。神官の禊ぎの建物が本殿脇に設けられています

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▶大江神社(神功皇后・應神天皇・武内宿禰)

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▶繊維神社(天羽槌雄命・天棚機姫命)

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▶大国主神社(大國主神・事代主神・少彦名神)

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▶天満宮(菅原道眞)

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▶相殿神社(春日・住吉・大神受美・猿田彦・大宮比賣・多賀・天御中主・産靈・直比・諏訪・事平・大歳)

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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賣布神社(売布神社)(H21.4.21)

●賣布神社<売布神社>(めふじんじゃ)(島根県松江市和多見町81)
賣布神社は、出雲国風土記に「賣布社(めふのやしろ)」、延喜式には「賣布神社(めふのかみやしろ)」と記された古社で、遠く神代において御祭神である櫛八玉神が潮の流れの中にあるとされる速秋津比賣神を生命の祖神としてお祀りになったことに始まり、後に植樹の神とされる相殿の3神をあわせ祀られたと伝わります。社号の「めふ」とは海藻や草木の豊かに生えることを意味しています。
元の鎮座地は意宇郡の海辺であり、宍道湖が形成される頃袖師ヶ浦へ、そして潟地が広がって今の白潟ができたころの天正年間(16世紀後半)に、海水の流入口となった現在地へ遷座されたと伝えられています。「白潟大明神」や「橋姫(はしひめ)大明神」とも称され、長期に渡り松江の産土神として崇敬されてきました。中世には広大な神田や、漁業権を保有していた模様で、祭儀には摂社の漁労の神・調理の神である櫛八玉神と関連した、古代神話の国譲りに因む神事が継承されてきました。
主祭神は速秋津比賣神(通称橋姫と呼ばれ水門神、祓門神)、相殿神は五十猛命、大屋津姫命、抓津姫命(樹種神)、摂社神は櫛八玉神(出雲大社の膳神で、漁労神)です。

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▶鳥居

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▶神門

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▶手水舎

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▶拝殿

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▶ご本殿。後方から

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▶恵美須社(大國主命・事代主命)

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▶常光神社

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▶白潟地主総荒神(速秋津比古神・素盞嗚尊)

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▶船霊神社(表筒男命・中筒男命・底筒男命)

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▶金刀比羅神社(大名牟遅命・少彦名命)

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▶趣のある石灯

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▶ご神木

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▶和田津見社(櫛八玉神・豊玉彦神・豊玉姫神)

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▶道祖神社でしょうか?詳細はわかりません

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▶ご朱印

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2010年2月 3日 (水)

神魂神社から八重垣神社(H21.4.21)

●神魂神社(かもすじんじゃ)(島根県松江市大庭町563)
神魂と書いてカモスと読むのは珍しいですが、説によると「神霊の鎮まり坐す所」つまり神坐所(かみますどころ)がカンマスになり、カモスとなったと言われています。神魂神社は、大庭大宮ともいい、通称、大庭の大宮さんの名で親しまれています。松江市の「大庭」という地名は神様の祭りごとをする場所のことらしいです。
この神社を造ったのは出雲国造家の祖である天穂日命とされている。天照大御神の第二子とされる天穂日命は、この地に天降ると、出雲の守護神として伊弉冊大神(イザナミノミコト)を祀った。それがこの神魂神社の始まりであるといいます。天穂日命がこの地に天降られ出雲の守護神として創建、以来天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで奉仕され、大社移住後も「神火相(ひつぎ)続式」「古伝新嘗祭(にいなめさい)」奉仕のため参向されている。
本殿は室町時代初期、正平元年(1346)建立の大社造で、その大きさは三間四方高さ四丈あり出雲大社本殿とは規模を異にするが、床が高く、木太く、とくに宇豆柱が壁から著しく張り出していることは大社造の古式に則っているとされ、神魂神社は現存する大社造りの神社としては出雲大社よりも古く、最古の大社造として昭和27年国宝に指定されています。
神紋には「有」という字が使われています。神々が御集合になる目標として、神在月の十月の十と月を合わせて象形したものと伝えられています。

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▶一の鳥居

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▶二の鳥居

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▶二の鳥居横の山道。どこに辿り着くのか気になりました。

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▶苔生した参道を進むと手水舎(御手洗)があります。自然石をくり貫き、流れる湧き水を利用しているそうです。手水舎(御手洗)の所で参道はなだらかな「女坂」と急勾配の「男坂」との二手に分かれます

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▶女坂

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▶男坂

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▶男坂の石段を登り切ると、目の前に神社殿が聳えています。一見して、歴史的にも価値がありそうな建物で、威圧感があたりに漂よっているのを感じます。

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▶拝殿内部

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▶拝殿と国宝のご本殿。苔むした屋根、風雨でくすんだ木肌。造りは大社造と呼ばれる造りで出雲地方独特の様式です。大社造は神社建築の中でも原始的な造りで、派手な装飾はありませんが質素ながら荘厳さを感じます


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▶御釜殿。御釜殿内にその昔、出雲国造の租神である天穂日命(あめのほひのみこと)が高天原から降臨された時、乗ってきたと伝えられる釜が保管されています。12月13日にお釜神事があります

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▶熊野社

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▶伊勢社

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▶杵築社

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▶貴布禰稲荷両神社。桃山時代の建築様式である二間社流れ造りで、国の重要文化財に指定されている。流れ造りそのものが出雲地方では珍しい。

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▶外山社

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▶荒神社

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▶武勇社・蛭子社

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▶洞穴?詳細はわかりませんでした

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います


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▶八重垣神社まで埴輪ロードというハイキング道になっています。テクテクと30〜40分歩きます

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▶埴輪ロードは古墳や遺跡の密集地なので少し期待しいていたのですが、しかし、遊歩道の両側に埴輪風の置物があるだけ・・・


●八重垣神社(島根県松江市佐草町227)
八重垣神社境内には連理大杉があり、縁結びの神でもあります。「早く出雲の八重垣様に、縁結びが願いたい」という出雲の古い民謡の一節からもわかるとおり、出雲の縁結びの大神として知られています。
八重垣神社、主祭神として主祭神として二柱の夫婦神を祭っています。八岐大蛇(ヤマタノオロチ)退治で名高い天津神の素盞嗚尊と国津神の稲田姫命です。ただし、女神の名は『古事記』では櫛名田比売、『日本書紀』では奇稲田姫となっています。
高天原から出雲国の肥の川(斐伊川)の上流に降り立った素盞鳴尊は、嘆き悲しんでいる老夫婦に出会いました。この老夫婦は脚摩乳(あしなづち)と手摩乳(てなづち)という神様で、8人の娘がいましたが、毎年やって来る大蛇に娘を次々に食べられ、今年はついに末娘、稲田姫命の番に。そこで素盞鳴尊は、稲田姫命をもらい受けることを条件に大蛇退治を請け負いました。
素盞鳴尊は、まず佐草にある「佐久佐女の森(現・八重垣神社奥の院)」の大杉を中心に八重垣を造って、稲田姫命をお隠しなさいました。そして次に用意したのは、強い酒が入った8つの桶。大蛇は、素盞鳴尊の作戦どおり8つの頭をそれぞれの桶に突っ込んで酒をあおり、酔っぱらってその場で眠ってしまいました。素盞鳴尊はすかさず剣を抜き、大蛇をズタズタに切り裂いて見事に退治し、「八雲立つ出雲八重垣妻込みに八重垣造る其の八重垣を」という喜びの歌をうたい、老夫婦との約束を果たしたので、素盞鳴尊と稲田姫命はめでたく夫婦となったのでした。稲田姫命の両親に承諾を得て結ばれた二人は、「いざさらばいざさらば連れて帰らむ佐草の郷に」という出雲神楽歌にもある通りこの佐草の地に宮造りして、御夫婦の宮居とされ縁結びの道をひらき、略奪結婚から正式結婚に至る模範を示し、正式結婚をした初めての大神とされ、縁結び、夫婦和合、授児安産に御利益がある神社として多くの人がお参りにやって来ます。これが八重垣神社のおこりで、社号も上記の歌に由来しています。
素戔嗚尊が建てた宮居は、もとは大原郡大東町にありましたが、中世に入り、この地にあった佐久佐神社に合祀されました。佐久佐神社は、青幡佐久佐比古命をお祀りしている神社で、延喜式にも登場する古社でしたが、縁結びの神として八重垣神社のほうが有名になってしまったため、明治11年、佐久佐神社から八重垣神社へと、社号を改め、現在に至っています。
また境内には椿の木が多く、その中でも3本ほど夫婦椿と呼んでいる木は、地面から2本の木が出て地上で1本になっているので、一身同体、愛の象徴として神聖視されています。年により2葉の葉が現れることもあり、ご神徳の表れと大切にされています。
本殿裏手、奥の院にあたる森(佐久佐女の森)の中は、稲田姫が八岐大蛇の難を避けられた時の中心地で、日々水を召し上がり姿を映された鏡の池があります。幻想的な雰囲気のあるいい場所です。この池のほとりには小さな祠があり、稲田姫命が祀られています。縁結び、心願成就占いの池として占い用紙に硬貨を乗せて浮かべ、縁の遅速を占う方の姿が毎日見受けられます。鏡の池では、半紙に硬貨を乗せて浮かべ、沈む速さによって良縁を占う恋占いが有名です。

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▶社号標

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▶鳥居の向かい側にある夫婦椿。根元は2本、地上で幹が1本にくっついているという、なんとも仲むつまじい椿。これは、稲田姫命が地面に立てた2本の椿の枝が芽吹いて1本になったという言い伝えがある「夫婦椿」で、一心同体、愛の象徴として神聖視されています。

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▶手水舎

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▶随神門

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▶拝殿

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▶ご本殿

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▶参集殿の中に保管されている超変わっている御神輿。生々しいです。

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▶ご本殿右側の脚摩乳社と伊勢宮

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▶「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる この八重垣を」の歌碑

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▶ご本殿左側の手摩乳社と貴布祢社

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▶宝物館。ここには、約1100年以上前に描かれたといわれる素盞鳴尊・稲田姫命・天照大御神・市杵嶋姫命、脚摩乳命、手摩乳命の六神像の貴重な壁画が保存・公開されています。実は、描かれた年代については諸説あるようですが、寛平5年(893年)、平安時代の宮廷画家だった巨勢金岡(こせの かなおか)によって描かれたとされており、国の重要文化財に指定されています。もともとは本殿の壁に飾られていたもので、昭和41年(1966年)に取り外されて修理、宝物館で保存されるようになりました。日本の絵画史上最も貴重なものといわれています。入館料は200円です

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▶山神神社

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▶奥の院鏡の池に向かいます

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▶ここにもこのようなものが・・・
黒光りしているけど、かなり使い込んだような、ちょっと擦れている男根(爆)

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▶奥の院側の手水舎

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▶光こぼれる清々しい奥の院への参道

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▶奥の院入口。奥の院は、神話の世界で佐久佐女(さくさめ)の森と呼ばれていた所で、原生林がそのまま息づいているような森で、小泉八雲はこの森を「神秘の森」と呼びました

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▶奥の院の入り口近くの夫婦椿・子宝椿

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▶大杉(夫婦杉)。素戔嗚尊が八岐大蛇を退治する際、稲田姫命が身を隠していたとされる場所です。大杉が天空に向かって聳えています

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▶天鏡神社。御祭神は、稲田姫命

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▶鏡の池。稲田姫命が森の大杉を中心に八重垣を造って八岐大蛇の難を避けるため、避難している際、日々の飲み水とし、また姿を写す鏡としていたという言い伝えがあり、「姿見の池」ともいわれています。こんこんと湧き出る清水が昔ながらの面影をしのばせ、稲田姫命の御霊魂が底深く浸透しているところから、縁結び占いの池として信仰されています

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▶池に浮かべた占い用紙。和紙の沈む速さで良縁の訪れが早いか遅いかが分かり、また和紙が近いで沈めば身近な人と、遠くなら遠方の人と結ばれるとされています

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▶そのままじっと待っていると、コインの重みで半紙に池の水が上がってきます

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▶約5分後、コインは沈んでいきました。

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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熊野大社(H21.4.21)

●熊野大社(島根県松江市八雲町熊野2451)
出雲国には一之宮が二つ存在します。出雲国西寄りの旧大社町にある出雲大社と東寄りの旧八雲村にある熊野大社です。熊野大社の創建は神代で、初見は「日本書紀」(720)の斉明天皇5年(659)に「出雲國造を厳神の宮をつくらしむ」との記載があります。「出雲国風土記」(733)の熊野山の条項に「熊野大神の社坐す」とあり、当時は熊野山(現在の天狗山)に鎮座していたことがわかります。「延喜式神名帳」(927)に熊野坐神社と見え、日本火出初神社とも称され、古来、杵築大社(出雲大社)と並んで出雲の国の大社として鄭重な扱いをうけました。朝廷のご尊祟が極めて篤く、仁壽元年(851)に従三位を、貞観9年(867)に正二位の神階を授与された。中世の頃に熊野山から麓に移る。また、上の宮、下の宮の二社に分かれ奉仕されるようになり、江戸末期まで上の宮には熊野三社権現、下の宮は伊勢宮とも呼ばれていました。殖産興業・招福縁結・厄除の大神として衆庶の信仰が深い。明治4年(1871)国幣中社、大正5年(1916)国幣大社に進列された。しかし、社号は明治の神社制度改正で大社から神社となってしまい、大社号の復活が望まれて久しかった。が、昭和53年(1978)の昭和戊午遷宮で熊野大社に復活しました。昭和53年の戊午遷宮を機に本殿をはじめ諸社殿、境内が一新されました。
古来特に出雲大社との関係が深く、出雲大社の祭祀は熊野大社の「神聖の火(熊野大神の霊)」、燧臼燧杵の神器を拝載する事によってはじまるとされ、出雲大社宮司(出雲國造)の新任時の霊継式(火継)、また年々の当社の鑽火祭に於いて新しいその神器が授与されます。
10月に行われる鑚火祭の亀太夫神事では出雲大社の神職が平身低頭して熊野大社の社人亀太夫から古伝新嘗祭で用いる神器を授けてもらいます。古来からの両大社のつながりの深さがわかる神事です。火の発祥の神社として「日本火出初之社」(ひのもとひでぞめのやしろ)とも呼ばれています。

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▶一の鳥居

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▶一の鳥居を入ったところの狛犬

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▶二の鳥居

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▶「上の宮」跡へは時間がなくて、行けませんでした

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▶八雲橋から意宇川を望む

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▶三の鳥居

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▶大きな注連縄を張った随神門

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▶拝殿。出雲大社と同様に大きな注連縄の拝殿が神域中央にどっしりと構えており、その奥に大社造りのご本殿の屋根が見えます。伊邪那伎日真名子 加夫呂伎 熊野大神櫛御気野命とという長い神名を持つスサノヲノミコトをお祀りしています

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▶拝殿の内部

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▶稲田神社。ご祭神は櫛名田比売命、足名椎命、手名椎命他六社合祀

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▶伊邪那美神社。ご祭神は伊邪那美命他十九社合祀。元々は上の宮の社殿

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▶舞殿。もともと拝殿だった建物を昭和53年に移築したものらしいです

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▶「八雲立つ~」の和歌の歌碑

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▶鑽火殿(さんかでん)。大正4年の造営。
器の火鑽臼(ひきりうす)と火鑽杵(ひきりきね)を保管する建物。燧臼・燧杵は、古代の人々が火を熾す際に使った道具で、古くからのしきたりを大切にする神社の祭りや神事では、この道具を神聖な神火を鑚り出す方法として今も使用しています。
熊野神社では毎年10月、燧臼・燧杵を用いた特殊な神事が行われます。鑽火祭(きりびまつり)と呼ばれている神事で、この日は、出雲大社の宮司が「古伝新嘗祭」に使用する燧臼、燧杵を受け取るために熊野大社を訪れます。この神器を授け渡す儀が「亀太夫神事」と呼ばれるもので、出雲大社が納める餅の出来ばえについて苦情を口やかましく言い立てる変わった行事で、その後に、出雲大社の宮司が神前に進み出て、神歌と琴板の楽に合わせて「百番の舞」という神舞を舞い、舞が終わると宮司が退出し、神事が終わります。
出雲大社の奉祀する宮司(国造)が代替りするときも、熊野大社に参り、熊野の神から拝戴の火切臼と火切杵とで聖火を切り出し,この聖火で料理した神饌を熊野の神に奉り,自らもこれを口にします。また、拝戴の神火はもち帰り、斎火殿(おひどころ)に奉安して国造一生の間絶やすことがありません。国造の代替りは火の継承であるから,神火の拝戴を火継といいます。こうした神火相続の儀は、出雲大社の宮司(國造)が現在も古式のまま継承しています。

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▶稲荷神社

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▶荒神社

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▶荒神社横の御神水。非常においしいお水でした

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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