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2010年1月の7件の記事

2010年1月31日 (日)

出雲大社(H21.4.20)

●出雲大社(いずもおおやしろ)(島根県出雲市大社町杵築東195)
一般には「いずもたいしゃ」と呼ばれていますが、正式名称は「いずもおおやしろ」と読みます。大社の総称社として知られる旧官幣大社。『延書式』に名神大社として唯一大社に列し、出雲国一の宮として朝廷の崇敬が厚く、神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。
縁結びの神様「大国主大神(おおくにぬしのみこと)」で有名な出雲大社。毎年神在月の頃になると、日本各地の神々が出雲大社に集まり、男女の縁だけでなく、その他の色々な”縁”を結ぶ「神議り(かむばかり・会議)」を行うそうです。そのため、出雲地方では「神無月」のことを「神在月」といいます。毎年多くの参拝客が訪れ、縁結びの地として人気のスポットです。
創祀は『古事記』『日本書紀』などによると、大国主大神は素箋鳴尊の子(6世の孫とも)で、葦原中国の国造りにあたり、やがて天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨のとき、国土を譲って出雲国多芸志の浜に身を隠した。大国主大神の国譲りを喜んだ天照大神は、天日隅宮を築き、その子の天穂日命を奉仕させたのが起こりといいます。いまも天穂日命を祖とする出雲国造家が、連綿として祭祀を継承しています。
「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。
御本殿は「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式で建てられており、国宝に指定されている大変貴重なものです。高さは約24メートルあり、日本書紀(720年)や出雲国風土記(733年)にも記述があります。社伝によると、太古の出雲大社の本殿の高さは97m、中古には現在の2倍にあたる48mあったと言われています。平成12年には、その社伝を裏付けるかのような、直径3mもの巨大な柱根「宇豆柱(うずばしら)」が境内で発見されました。神楽殿には、日本一の「大注連縄」(重さ約5t)があり、出雲大社の参道入口から南へ600mほど下ると、日本一の大鳥居があります。八足門(やつあしもん)や楼門など21棟と銅鳥居1基が国の重要文化財。

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▶一畑電鉄出雲大社前駅

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▶出雲大社の駅とは思えない大胆なデザインなのに、異国情緒あるレトロ感がいい感じです。

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▶日本一の大鳥居。一の鳥居になります

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▶参道にある竹内まりやさんの実家の竹野屋さん

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▶二の鳥居

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▶緩やかな下り坂の参道

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▶祓社(はらいのやしろ)参拝する人をまずここで祓い清めます

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▶鳥居をくぐって一歩神域に足を踏み入れると、両脇から太い枝を張った樹齢何百年という老松の参道が長々と続きます。直立している幹などほとんどなく、幾分傾き加減の巨木が立ち並ぶ参道も趣があっていい感じです。松並木が終わるあたりで左右を見ると銅像が見えます

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▶大国主神と白兎

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▶大国主大神が幸魂(さきみたま) ・ 奇魂(くしみたま) を拝戴する場面「ムスビの御神像」。これが縁結びの由縁です

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▶皇后陛下の出雲大社に詣でての石碑「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず」
平成15年10月3日、天皇陛下・皇后陛下には出雲大社を御親拝あそばされ、皇后陛下が「出雲大社に詣でて」と御題されて「国譲り祀られましし大神の 奇しき御業を偲びて止まず」との御歌を賜われました。

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▶手水舎

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▶三の鳥居。寛文6年(1666)に毛利輝元の孫にあたる綱広が寄進した銅鳥居。漢文で銘が刻まれていて、その中に「・・・素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり・・・」とあり、祭神が素戔嗚尊と明言している不思議な一文で、出雲神話では、素戔嗚尊の神威力が高く受けとられていたことや大国主神が素戔嗚尊の直系の子孫にあたることから、祭神が混同された時代もあったのかも知れません

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▶昭和34年に再建された桧造りの美しい拝殿。大遷宮中の今は御仮殿になります。
出雲大社は「平成の大遷宮」の真っ最中。「大遷宮」とは本殿の造営、修理に伴い、修復が完了するまで大国主の大神様に仮の本殿となる仮殿に移っていただくことで、平成の大遷宮の場合は
・仮のお住いにお移りになる「仮殿遷座祭」 =平成20年4月20日
・仮のお住いから修復された本殿にお戻りになる「本殿遷座祭」=平成25年5月
出雲大社の大遷宮は厳密に何年毎というわけではなく、だいたい60年~70年おきに行われてきました

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▶出雲大社では、二拝四拍手一拝の作法で拝礼します。ほとんどの神社では二拍手が決まりのようなものですが、ここでは4回拍手します。社頭で2回おじぎをして、4回柏手を打ち、さらに一回おじぎをするのが出雲の作法です

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▶瑞垣の門・八足門。国宝の本殿は、拝殿の奥に瑞垣と玉垣に囲まれていて建っている。瑞垣の門を八足門という。普通は、ここから本殿を拝します。

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▶修復中のご本殿。昔の大遷宮は機械もなくどうやっていたのでしょうか?

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▶十九社(じゅうくしゃ)
本社の荒垣内、御本殿の東西に相対して鎮座で、それぞれ十九の扉がついています。出雲大社神在祭の期間、全国の神々がお泊りになる社です。旧暦10月10日の夕刻、出雲大社西方の稲佐の浜で全国の神々をお迎えして(神迎祭)から翌日11日から17日までの1週間(神在祭)は、この社の全ての扉が開かれ、おまつりがおこなわれます。今の御社殿は延享5年(1748)2月の御造替です。
我が国では、旧暦の10月を通常「神無月(かんなづき)」と呼んでいます。10月10日に全国の神々が出雲大社に集られ、10月11日から17日までいろいろな神議りを行わうため、出雲以外では神々が不在になるためで、出雲ではこの月を「神在月(かみありつき)」と呼びます。余談ですが、私のペンネームもこの神在月からいただきました

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▶摂社 氏社(うじのやしろ)本社の荒垣内、御本殿の西方に東面して鎮座する南北に並んだ二社です。北側の御社には天穂日命(あまほひのみこと)が祀られています。天穂日命は大国主神に国を譲るように朝廷から差し向けられた使者でしたが、大国主神に私淑(手本として慕い、尊敬し学ぶこと)してしまった神です。南側の御社には国造出雲臣宮向宿祢命(いずものおおみやむきのすくねのみこと)が祀られています。この国造は天穂日命の17世の神裔(孫)で、この時はじめて「出雲臣」の姓を賜ったといわれています。今の御社殿はいずれも延享5年(1748)5月の御造替です

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▶素鵞社(そがのやしろ)遙拝所
本社の荒垣内、御本殿の後、北の八雲山の麓に南面して鎮座で、御祭神は素箋鳴尊です。天照大神の弟神にあたられます。やがて出雲国に天降され、肥河上において八岐大蛇を退治されて人々をお助けになり、次いで奇稲田姫を御妻として大国主命をお生みになられました。その後大神に国づくりの大任をお授けになったことは、人々によく知られるところです。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。「平成の大遷宮」による瑞垣内諸社殿修理に伴い、遙拝所が設けられていました

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▶釜社(かまのやしろ)
本社の荒垣内、御本殿の東方に西面して鎮座。御祭神は宇迦之魂神です。この神様は、須佐之男命の孫にあたる神様で、食物を守る神様です。このあたり一帯の北山山地を宇迦山とも呼びますし、「宇迦」とは穀物を意味する古語といわれております。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。

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▶神楽殿
出雲大社では拝殿と神楽殿に巨大な注連縄の張られています。しかし、その張り方が普通の神社とはまったく逆になっています。日本では、古くから左(向かって右)の方が上位で尊いとしてきた。神社でも同じで、社殿から見て左側、すなわち参拝者から見て右側が上位であります。このため、一般の神社の注連縄を見ると、参拝者から見て向かって右側から綯い始め、向かって左側で綯い終わる。だが、出雲大社では正反対で、注連縄の綯い始めは向かって左となっている。作家の伊沢元彦氏は、その理由を「出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である」ためとしています

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▶神楽殿内部

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▶日章旗。この写真では全然大きく感じませんが、出雲大社の日の丸は、日本一大きい国旗なのです。国旗掲揚台の高さ47m。国旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgです。NHKの一日の放送終了時に映される国旗はここのを使っています。

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▶秋篠宮悠仁親王殿下ご誕生記念

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▶ご祭神不明

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▶神楽殿の裏。神楽殿のご本殿でしょうか?

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▶神楽殿の裏の鎮守社・天満宮の垣内の三社殿

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▶鎮守社・天満宮の垣内の二社殿

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▶鎮守社・天満宮

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▶境外摂社 神魂伊能知奴志神社(命主社)。神産巣日神をお祀りしています。
神産巣日神は、まだ伊邪那岐神と伊邪那美神が生まれるよりも前、高天原に最初に成った三柱の神のうちの一柱です。大国主神の危機を幾度も救い、国造りの支えとなりました。

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▶神魂伊能知奴志神社(命主社)の本殿のうしろから江戸時代初期に四本の青銅製利器と曲玉が出土したとされ、その場所には真名井遺跡との標識が立っていました。

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▶八大荒神社(仮の宮荒神社)
この神社は出雲大社の大鳥居前から日本海に抜ける29号線の北にある、奉納山公園の山麓に鎮座しています。
社号標には「仮の宮荒神社」とありましたが、鳥居と拝殿の額に「八大荒神社」とありました。この神社そのものについては何も説明がなかったので創建などについては分かりません。只、仮の宮は地区名であり、荒神様なので御祭神は素戔嗚命を祀っているものと思われます。奉納山は出雲大社へ奉納する経文を納めた所。

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▶境外摂社 大歳社

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▶国譲りにちなむ屏風岩。大国主神と建御雷神はこの岩の陰で国譲りについての話をしました

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▶境外摂社 上の宮(仮宮)。神在月に境内で「神在祭」が行われます。素戔嗚尊・八百万神

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▶境外末社 下の宮。天照大御神

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▶稲佐の浜と弁天島
国譲りの舞台となった浜です。建御雷神は十掬の剣を波頭に突き刺して、国を譲るか否かを問いました。また、旧暦10月10日の「神迎神事」はここで行われます。
島は弁天島です。出雲国風土記の国引き神話で、八束水臣津野命が出雲の国を大きくしようと他国の余った島を引っ張るのに使った綱が、弁天島になったとされています。引っ張ってきて繋ぎ合わせたのが杵築御埼(きねづきのみさき/現在の日御碕・ひのみさき)等です。

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▶北島国造館
出雲大社の境内を抜け、橋を渡ると北島国造館です。何故、同じ出雲大社にありながら、独立しているのだろうかと不思議でした。出雲大社の宮司の千家家と北島家はかっては同じ兄弟から別れ、同格、そして今は別の管理下であることを知りました。こじんまりとした気持の良い国造北島館境内です。北島国造館は,全国の出雲教(出雲大社,何々の国支社)の総本山と言うことらしいです。

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▶御神殿

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▶御三社 左より稲荷社、天穂日命社、荒神社

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▶天神社、心字池中之島に鎮座。後ろは亀尾の滝と呼ばれています。祭神 少名毘古那神

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▶天満宮

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▶相生の松

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▶JR大社駅(廃駅)。30年近く前、小学生の頃初めて友人と旅行したのが出雲大社で、この大社駅に夜行列車から降りたのをはっきりと覚えています。当時はまたJRではなく国鉄でした。30年近くぶりでホント懐かしく、このように当時のまま保存されているのを非常にうれしく感激しました。
このJR大社駅が開業したのは明治45年6月で、駅舎は大正13年の改築です。平成2年3月31日には大社線が廃止となったため、大社駅も共に廃駅となりました。

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▶鉄道の栄枯盛衰を象徴するような駅です。神社様式のなんて美しい駅舎なんだろうと見とれてしまいました。出雲大社を模したつくりです。平成16年に国の重要文化財に指定されました

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▶駅ではめずらしい出雲大社の大祭に遣わされるご皇室の勅使をもてなすための貴賓室や駅名標、出雲大社の大鳥居が見えるホームなどが当時のままに残されています。さらに、旧事務室は喫茶店として使われており、大正ロマンが味わえ往時をしのぶ事が出来ます

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▶昔は大勢の駅員さんが働いていた事でしょう。ちなみに全盛期(昭和47年)には一日の乗降客4000人、発着荷物180トンを誇りました

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▶展示されている機関車(D51型774号機)は昭和49年11月30日まで走っていました

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▶全盛期には出雲大社参詣用の団体専用列車を迎え入れていただけでなく、東京から大社まで急行が走り、大阪からは昭和60年まで急行「だいせん」が大社まで乗り入れていたのです。『お召し列車』の送迎、急行いずも号(大社~東京)・急行だいせん(大社~京都)などの直通運転をはじめ、戦後の最盛期には年間の団体臨時列車は280本を数えました。

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▶御朱印

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2010年1月30日 (土)

日御碕神社(H21.4.20)

●日御碕神社(ひのみさきじんじゃ)(島根県出雲市大社町日御碕445)
日御碕神社は島根半島の西端に位置し、上の宮に素盞嗚尊、日沈宮に天照大御神をお祀りしています。「上の宮」は「神の宮」ともいわれ素盞鳴尊を祀り、安寧天皇の13年に背後の隠ケ丘(かくれがおか)から遷されたものです。「日抗宮(ひしずみのみや)」は、須佐之男命の御子、天葺根命(あめのふきねのみこと)が御崎の浜(清江の浜)に出かけたとき、経島の百枝(ももえ)の松に瑞光が輝いて天照大神の神託があったので、この島に大神を奉斎しました。島の上に神殿を築き、これが『出雲国風土記(いずものくにふどき)』に載る「百枝槐社(ももええにす)」であるといわれてる)ともいわれ、西の海に太陽が沈むところだと言われています。ちょうど夏至の日、この日御碕神社と出雲大社、木次町の「日登地区」、そして和歌山県の日ノ御崎を結んだ直線上を太陽が昇り沈んで行くそうです。
素盞鳴尊の奇魂(くしみたま)と、日の神・天照大御神の和魂(にぎみたま)の御霊威をいただいた御神徳は「邪心を払い給う神」「厄除けの神」「産びの神」「縁結び、夫婦円満、家運繁栄の神」「交通安全の神」「殖産興業、安産の神」など、広く霊験あらたか、上世以来二十数回の造営すべてが勅命か将軍命によるものであることからも、御神威の一端がうかがわれます。また、戦国時代の大名、尼子氏が日御碕神社を尼子氏領国の守護神に指定したことにより、戦国期には日御碕神社は出雲大社と肩を並べる神社になっています。
現在の社殿は、日沈宮、神の宮ともに徳川三代将軍家光公の命で、日光東照宮建立の翌年、寛永十四年より幕府直轄工事として着工され、七年の歳月をかけて同二十一年の竣工で、三百六十余年を経ています。これら社殿の造営資金は、幕府から1200貰文(現在の金額で30~40億円)が寄付されています。桃山時代の面影を残す精巧な権現造りで、両本殿内部の天井四壁の絵は狩野、土佐両派の画匠による豪壮な趣きのあるものであります。昭和28年には、社殿のすべてと境内の石造建築物も含め、国指定重要文化財とされました。
ご祭神は出雲大神の父神に当り、出雲大社の奥の院・親神として、また伊勢神宮は昼を、当社は夜を守る神との信仰があります。歴史をたどると、『出雲国風土記(奈良時代)』に「美佐伎社(みさきしゃ)」、『延喜式(平安時代)』に「御崎社」と記されている古社です。
平安時代末期には平田市の鰐淵寺とともに山岳霊場として全国に知られていたらしく、『梁塵秘抄(りょうじひしょう)(後白河上皇撰、鎌倉時代)』にも記され、平安時代末に都で流行した歌謡にも歌われていました。そして、室町時代には、当時の室町幕府(将軍足利義澄)から「日御碕造営勧進簿」をもらったことが史料にのっています。

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▶日御碕神社バス停前の一の鳥居

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▶手水舎

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▶楼門。楼門を抜けると正面の「下の宮(日沈宮)」と、右手の石段上に「上の宮(神の宮)」があります。

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▶日沈宮拝殿。本殿蛙股(かえるまた)(上を支えるための蛙の股のような建築部材)を中心とする彫刻は、竜虎をはじめ鶴亀や松竹梅、そして日光東照宮のように「見ざる、言わざる、聞かざる」の猿をかたどった見事な彫刻が施されています。

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▶日沈宮ご本殿

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▶日沈宮拝殿とご本殿

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▶神の宮拝殿

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▶神の宮ご本殿

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▶右の門客人神社

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▶左の門客人神社

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▶神紋石舎

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▶御神砂之碑

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▶稲荷社

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▶御井社?でしょうか?

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▶荒祭宮

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▶神倉のような社殿

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▶摂社 荒魂神社

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▶神倉の横の末社

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▶昭和天皇陛下御製の御歌。昭和57年くにびき国体に行幸のみぎり、日御碕神社にご親拝された際に賜った御歌とのことです。

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▶蛭児社

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▶韓国神社

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▶境外摂社 厳島社でしょうか?社標が消えていてわかりませんでした。

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▶祖霊社

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▶境外社 順式社。右奥のお稲荷さんは詳細はわかりませんでした

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▶港側(経島)の鳥居

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▶日沈宮は、当初「百枝槐社(ももええにす)」として経島に祀られており、この島(大小二つの島からなり、面積約3000平方メートル、高さ20メートル)は今も神域であり、一般の人は入島が禁じられています。
この島の名は、島全体を覆おうデコボコの流紋岩が柱状に発達(石英角斑岩の柱状節理)し、ちょうどお経の巻物を積み重ねたように見えることからこの名前がついたと言われています。

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▶また、この経島は青森県の「蕪島(かぶしま)」と共に日本では数少ないウミネコ(カモメ科)の繁殖地として国の天然記念物に指定(大正11年)されています。

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▶ウミネコの数は数千羽にも達し、ここが繁殖地となったのも、経島沖がイワシ、サバ、アジ、ブリなどの好漁場で餌が十分であったことと、この島が神域で人が立ち入らなかったからでしょう。また、この鳥は魚群を知らせる水鳥として漁師さんにかわいがれています。

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▶日御碕灯台
この海成段丘に立つ日御碕灯台は、世界灯台100選や日本の灯台50選に選ばれた日本を代表する灯台で、歴史的文化財的価値が高いため、Aランクの保存灯台となっています。日本の灯台50選に選ばれています。明治32年に浜田(島根県)、境(鳥取県)の両港が開港場に指定されて外国貿易がさかんになったので、大型の沿岸灯台設置の必要性が高まり、明治36年に設置・点灯されたものです。高さは基礎から頂部まで43.65メートルで、今なお日本最高の灯台、石積みの灯台としては東洋一の高さとして有名です。平成10年には、この日御碕灯台は「世界の歴史的灯台百選」の一つとして選ばれました(国際航路標識協会がまとめた「世界各国の歴史的に特に重要な灯台百選」

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▶日御碕遊歩道。日御碕から桁掛半島を経て鷺浦に至る地域では、日本海に面した海食崖に沿って、およそ1,600万年前に噴火した流紋岩のさまざまな産状を見ることができます。日御碕灯台から遊歩道のあるところは流紋岩が最も厚く分布しているところです。

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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須佐神社(H21.4.19)

●須佐神社(島根県出雲市(旧・簸川郡)佐田町宮内730)
須佐神社は、出雲国風土記にも登場する由緒ある古社。全国に数多くある須佐之男命(スサノオノミコト)ゆかりの神社の中で唯一、御魂をお祭りしている神社です。須佐之男命を主神とし、稲田比賣命、脚摩槌命、手摩槌命を配祀されています。
出雲風土記飯石郡の條に「須佐郷、郡家の正西一十九里、神須佐能袁命詔り給はく、此の國は小き國なれども、國處なり、故我が御名は木石に着けじと詔り給いて即ち己命の御魂を鎮め置き給いし處なり。然して即て大須佐田小須佐田を定め給いき。故、須佐という。即ち正倉あり」と載せてあります。即ち御神徳の宏大なる須佐大神が自ら御魂を鎮め置き給いし、いとも尊き御社であります。須佐之男命の御社としては他に其の比儔を見ざる處であります。須佐は須佐之男命の御終焉の地御鎮魂の聖地御名代としての霊地であり、須佐之男命の御本宮として古より須佐大宮、十三所大明神、出雲大宮と稱え朝廷をはじめ國守藩主、武将の崇敬は申すに及ばず世の人々の崇敬あつい神社であります。
明治に至るまでに幾度か神社名が変わっており、奈良時代には須佐社、平安時代には須佐神社、室町時代には十三所大明神、天文年間には大宮大明神、近世では須佐大宮あるいは出雲大宮、そして明治4年に須佐神社と制定されました。
江原啓之さんご推薦ということで、テレビや雑誌などで日本一のパワースポットと紹介され、にわかに注目を集め始めています。須佐神社へは、出雲市駅から一畑バスで行くしかありません。朝方は2時間に1本ぐらいしかありません。出雲市駅からバスに揺られること40分、終点の出雲須佐へ到着。そこからタクシーで約5分。出雲須佐のバス停前に丁度タクシー会社があるのですが、車が2台しかありません。それを知らず、帰りタクシーを呼んだのですが、出てしまっていて、2時間ぐらいかかると言われて、最終バスにギリギリでした。

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▶鳥居脇の社号標には「須佐大宮」と刻まれています

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▶手水舎。なかなか趣があります

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▶石亀

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▶神馬舎

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▶隋神門。豊磐間戸神、櫛磐間戸神をお祀りしています。

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▶参道左右の東末社・西末社。天忍穂耳命、天穂日命、天津彦根命、活津彦根命、熊野樟日命(、市杵嶋姫命、田心姫命、湍津姫命をお祀りしています

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▶塩井。須佐神社の七不思議のひとつ。海に続いていて、水の湧き出しに間渇があるのは、海の満ち引きに関係があると言われています。

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▶拝殿

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▶拝殿、横から

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▶ご本殿。2間四方の大社造。現在のご本殿は、戦国武将の尼子晴久の時代天文23年(1554)に建て替えられたものでで、出雲大社とともに代表的な大社造りの建物です
大社造とは、四方の柱の間に一本ずつの柱がある。即ち方二間で中央に真柱がある。中央と右中間の柱との間を壁でとじ、その奥を神座とする。向かって右方一間を入口とし階(きざはし)をつくる。この入口が右方に偏っていることは、他の神社や仏寺には全く例のないことで、神社と住宅が分離しない原始の建築を伝えている。屋根は切妻栩葺(きりつまとちぶき)で妻の方に入口がある。出雲大社と共に典型的な大社造りの建造物で島根県重要文化財として指定されています

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▶ご本殿裏の大杉さん。悠久の時に包まれた境内は、青々と樹木が生い茂り、聖霊な空間に閉ざされたような緊張感が漂います。

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▶百手神事が執り行われていました。4月19日の古伝祭で午後に行われる、悪魔退散・五穀豊饒を祈願する弓射神事。

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▶稲荷社。稲倉魂命をお祀りしています

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▶三穂社。通称、下の御前さん。三穂津比売命をお祀りしています

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▶ご祭神不明

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▶天照社。ご祭神は天照大神。神社の前の道路を挟んで向かい側。須佐神社の本殿と一直線に対峙するように建っています。上の御前さんとも呼ばれる。中世には伊勢宮と呼ばれていました。

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▶須佐神社ご朱印

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2010年1月29日 (金)

金劔宮(H21.4.14)

●金劔宮(きんけんぐう)(石川県白山市白山市鶴来日詰町巳118)
祟神天皇三年(紀元前95)の創建と伝えられ、剱集落の発生と時を同じくして、鎮斎せられました。白山七社(「本宮四社(白山、金剱、岩本、三宮)」「中宮三社(中宮、佐羅、別宮)」)の一つに数えられています。古くは「剱宮(つるぎのみや)」と称し、明治以降「金剱神社」の社名が用いられました。 また、金剱明神、剱明神などとも呼称される時期もありましたが、 現在は宮号に復し、「金剱宮」と称されています。「鶴来(つるぎ)」という地名の文字は、江戸時代の元禄以降に使用されたもので、 元来は「剱」または「剣」と記したことから、社名と地名とが一致した代表的な事例といえます。
尚武の神、身命守護、生業繁栄の神として信仰が篤く、寿永二年(1183)木曽義仲が倶利伽羅谷合戦の大勝を奉謝し、鞍置馬20頭を寄進しています。また文治二年(1186)には、奥州へ向かう源義経が、金剱宮に参拝し、 夜もすがら神楽を奉納したと『義経記』に記されていて、義経奉納の太刀一口があったとの口伝があります。境内には「義経腰掛岩」が残っています。
最近では、金運アップのパワースポットとして有名で、全国から金運アップを願い、訪れる人が後を絶ちません。

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▶最寄り駅の北陸鉄道中鶴来駅

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▶平成21年11月1日で鶴来~加賀一の宮駅間が廃止されるため、永遠に列車が走ることがなくなります

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▶中鶴来駅 無人駅です。

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▶表参道入口

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▶社号標「縣社 金剱神社」と記されています

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▶この階段を上ると道路にでます。

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▶道路を渡って、この階段をのぼります。

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▶また、道路を渡って、境内入口にでます。一の鳥居から二つ道路を渡ります。ここには鳥居はありません。

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▶境内への鳥居は少し北側の入口にのみあります。

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▶手水舎と狛犬

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▶亀石

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▶天忍石(牛石)
「社頭に影向石あり、天忍石と呼ぶ。古神霊此の石頭に降臨したまへしと言う。」(鶴来町誌 明治十六年刊)より。尚、牛石とも言う。形状小牛に似ている故なり。※影向=神仏が一時姿を現すこと(境内案内板より)

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▶義経腰掛石
源義経、奥州へ落ちのびる途次、金劔宮に詣でた。その折境内のこの石に腰掛け、眼下に広がる平野や手取川を眺めたと伝えられる。 義経記巻七に、「安宅の渡りを越えて根上の松に着き給ふ。……明くれば白山に参りて女体后の宮(白山比咩神社)を拝み参らせて、その日は 剣の権現(金劔宮)の御前に参り給ひて、御通夜あり、夜もすがら御神楽参らせて、……」と、 あるによるなり。尚、往古義経笈掛の松もありしと言う。※笈=修験者や修行僧が経典や衣類を入れて背負った葛篭(境内案内板より)

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▶拝殿。雪対策なのでしょうか、鞘堂に覆われています。

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▶拝殿前

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▶拝殿内

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▶御本殿。ご御祭神:瓊々杵尊、大國主神、大山咋命、日本武命、事代主神、猿田彦神

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▶つるぎの大神悠久の杜

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▶天の真名井

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▶舞殿

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▶乙剱社

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▶粟島神社(少彦明神)

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▶丈六宮(大山咋命)

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▶金刀比羅宮

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▶恵比須社拝殿

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▶恵比須社のご祭神は天地悠久の大神霊〈金劔宮社叢ウラジロガシ林を御神体とする神様〉と大阪の今宮戎神社の御分霊

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▶恵比須社拝殿と御本殿 

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▶招魂社前の手水舎。水は流れていませんでした。

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▶招魂社(御英霊)。境内の最北に位置する招魂社。10mほどの階段があります。 招魂社は少々離れたところに位置しています。

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2010年1月23日 (土)

白山ヒメ神社(H21.4.14)

●白山比咩神社(石川県白山市三宮町ニ105-1)
白山ヒメ神社は遠く神代の昔霊峰白山を神体山として生きとし生けるものの「いのち」の祖神を仰ぎまつる白山ひめ大神を奉斎したことにはじまります。神祠の創建は崇神天皇の7年(約二千百年前)と伝えられております。
明治維新後は「下白山」を本社、「白山天嶺」を「奥宮」とし国幣中社として国家の殊遇を受けましたが 終戦後の今日では全国に三千有余を数える白山神社の総本社として「白山信仰」の中心をなしております。 家内安全・延命招福・五穀豊穣・大漁満足・商売繁盛・交通安全及び縁結びの守り神としていやちこ御神徳を仰がれております。927年に記された『延喜式』にも名社として挙げられています。古来「下白山(しもしらやま)」と呼ばれた本社は、霊峰白山の「まつりのにわ(祭事を行なう場所)」として設けられた白山本宮で、「加賀一ノ宮」として尊敬され、「白山(しらやま)さん」として多くの人々に親しまれている北陸鎮護の大社です。

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▶北陸鉄道加賀一の宮駅を下車して、スグに見える看板。表参道を行きます。車の人は北参道側に駐車場があるので、表参道からはあまり参拝されませんが、是非、表参道からの参拝をオススメします。

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▶白山比咩神社の一の鳥居と社号標

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▶せせらぎが聞こえる参道

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▶境内の入口まで緩やかで真っ直ぐな参道を進みます

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▶御神木の老スギ

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▶琵琶滝

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▶手水舎

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▶天皇陛下の御製の御歌

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▶二の鳥居

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▶三の鳥居。ここを過ぎると神門に出ます。

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▶神門手前の御神木。大ケヤキ

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▶神門

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▶神門前、荒御前神社。御祭神:荒御前大神・高日大神・日吉大神・住吉大神

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▶御社殿。手前に拝殿。その奥に御本殿

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▶白山奥宮遥拝所

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▶盤持石

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▶大正三四年って?どういうことなんでしょう?

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▶白山奥宮遥拝所横の階段を下りて、奥にある参集殿を過ぎると鳥居があります。

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▶手水舎(亀石)

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▶禊場。禁足のように思われましたので、遠くから写真だけ撮らせて頂きました。

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▶禊場の隣にたつ住吉社

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▶北参道側の手水舎。新しい感じがします。

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▶北参道側の手水舎近くの祠。ご祭神不明

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▶この霊水を頂きに来られる人が多いです

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▶北参道側の鳥居。手前が駐車場になっています。

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▶北参道側の鳥居前の穢れ清め所

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▶駐車場横の大権現。白山比咩神社と関係があるのかどうかわかりません。


全国約三千社の白山神社の本宮である白山比咩神社は、当初現鎮座地から北方1Kmの舟岡山山頂に鎮座。その後、応神天皇二十八年(293)手取川畔に遷り、さらに、元正天皇霊亀二年(716)、安久濤の森に遷座。旧社地は北陸鉄道加賀一ノ宮駅前の古宮址安久涛の森でありますが、文明12年(約530年前)の大火によって四十有余の堂塔が 悉く烏有に帰しましたので、その後末社三宮神社の境内である現在地を本宮鎮座の地と定めて今日に至っているのです。その後、文明十二年の大火で、末社三宮のあった当地へ遷座されました。
安久濤の森は、加賀一宮駅の横にあり、現在、古宮公園となっています。

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▶古宮公園内に祀られている水戸明神

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▶白山比咩神社の下が消されていてわからないですが、何らかの関係がありそうな石碑

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▶古宮公園から見た加賀一の宮駅

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▶平成21年11月1日で鶴来~加賀一の宮駅が廃止されるためこの光景を見るのも最後

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▶重厚感があって、趣のある駅舎

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▶歴史を感じさせる佇まい

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▶駅名標。存在だけで重みを感じさせます

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▶数ヶ月後には、永遠に列車が走ることがなくなります

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います

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伊雑宮(H21.4.13)

●伊雑宮(三重県志摩市磯部町上之郷)
伊雑宮(いざわのみや)は、皇大神宮別宮で、式内社・粟嶋坐伊射波神社二座の論社であり、志摩国一の宮でもあります。三重県志摩郡磯部町上之郷にご鎮座。天照坐皇大御神御魂をおまつりされています。創立は、約2000年前の第11代垂仁天皇の御代のことであります。延暦年間(782~806)には、すでに「天照大神遥宮」と称され、他の別宮と同様に祭祀が行われていたといいます。
皇大神宮ご鎮座の後、倭姫命(やまとひめのみこと)が御贄地(みにえどころ=皇大神宮へ奉る御供物を採る所)をお定めになるため、志摩国をご巡行の際に、伊佐波登美命が奉迎して、この地に当宮を創建して、皇大御神の御魂をおまつりしたと伝えられています。
『万葉集』に「御食(みけ)つ国、志摩の海女ならし、真熊野の小船に乗りて、沖辺漕ぐ見ゆ」とも歌われているように、志摩の国は風光麗しく、海産物に富み、古来神宮と朝廷のご料を貢進した地です。特に漁師、海女の崇敬があつく 伊雑宮で「磯守」を受け、身につけて海に入るのが風習となっています。

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▶近鉄志摩線上之郷駅下車徒歩約3分ほどです。

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▶手水舎。内宮外宮とくらべるコンパクトサイズです。

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▶異様に根本がふくれているご神木。

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▶神饌所でしょうか?

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▶20メートル程の参道の先に、御正殿があります。

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▶御正殿

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▶伊雑宮の御神田(おみた)
伊雑宮の南に日本三大田植祭の一つといわれる御田植神事が行われる神田があります。ここで収穫される米は神宮に奉納されます。

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▶伊雑宮のご料田で、毎年六月二十四日に行われるお田植は、 香取神宮、住吉大社のお田植とともに、日本三大御田植祭として有名です。 旧礒部九村が毎年輪番の奉仕で、古式ゆかしいく典雅なお田植が行われ、当日は 大変な人出でにぎわいます。

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▶御朱印。前にお参りしたときに頂いたもので、日付が違います。

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2010年1月22日 (金)

二見興玉神社(H21.4.12-13)

●二見興玉神社(三重県度会郡二見町江575)
二見興玉神社は、729年~749年頃に創建されたと言われています。猿田彦大神と宇迦御魂大神を祀る神社です。人々は「夫婦岩」と呼ばれる二つの岩を鳥居に見立てて、沖合い660メートルに鎮座する「興玉神石(おきたましんせき)」と呼ばれる猿田彦大神ゆかりの霊石を拝し、さらに夫婦岩の間からのぼる朝日を天照大神として拝んできました。夫婦岩はその鳥居とされています。二見浦の海辺に浮かぶ夫婦岩(めおといわ)は、古来より日の出遥拝所として知られており、晴れた日には遠く富士山を望むことができます。
倭姫命があまりの美しさに二度も振り返ってみたという二見浦にあるのが夫婦岩で有名な二見興玉神社。奈良時代に大江寺の境内に鎮守の神として興玉社を設けたのが始まりで、その後立石崎に遷座し、明治43年(1911)、現在地に興玉社と三宮神社を合祀し二見興玉神社となりました。現在の社殿は平成8年の造営。大注連縄(しめなわ)張神事…夫婦岩は、「日の大神」と夫婦岩沖合の猿田彦大神縁りの「興玉神石」を拝する鳥居の役目をしています。古来より、人々は二見浦に詣で、夫婦岩の間から差し昇る「日の大神」と、夫婦岩の沖合700mの海中に鎮まる猿田彦大神縁りの霊石と伝えられる「興玉神石(おきたましんせき)」 を拝してきました。
古来から伊勢神宮に参拝する際に、その前に二見浦で禊を行うのが慣わしでした。この二見興玉神社は、海の水に浸かり身体を清める、禊(みそぎ)(沐浴)をする場所なのです。現在では無垢鹽草(むくしおぐさ)=(海草アマモ)で身を清めるお祓いを受ける「浜参宮」が一般的ですが、海の水に浸かり禊をする人々も少なくないとのことです。神宮式年遷宮のお木曳行事やお白石持ち行事への参加者は浜参宮を行います。


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▶JR二見浦駅前の鳥居

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▶一の鳥居

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▶国歌「君が代」に歌われるさざれ石

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▶二の鳥居

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▶境内には、猿田彦大神のお使いと言われる二見蛙が多数奉納されています。
境内のあちこちで蛙の像を見かける。蛙は猿田彦大神の道案内をしたとされ、古来より交通安全、善導の守護神として広く信仰されてきたという。「若返る」「無事帰る」などの祈願を請け、また、ご利益のあった人々が蛙の像を奉納するといいます。

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▶天の岩戸

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▶天の岩戸の前にあった輪注連縄

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▶手水舎

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▶手水舎の中の満願蛙

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▶夫婦岩は小学生の時の修学旅行で来ているはずなのですが、全く記憶がありません。

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▶「興玉神石」は降臨する神の依り代(よりしろ)で、常世から神が寄りつく聖なるところといわれています。夫婦岩は大きいほうが「男岩」、高さ9m、周囲39.6m。小さいほうが「女岩」、高さ4m、周囲9m。
両岩を結ぶ大注連縄(だいちゅうれんなわ)の長さは35m。男岩に16m、女岩に10m巻かれていて、その間は9mあります。

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▶夫婦岩の上の鳥居

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▶拝殿

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▶ご本殿

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▶皇居遙拝所

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▶境内社 竜宮社
御祭神「綿津見大神(わたつみのおおかみ)」が祀られています。綿津見大神は海の守護をされる尊い神様であり、龍神を信仰される方々が全国よりお参りにこられています。

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▶日が暮れてきましたので、明日の日の出に出直すことにします。
1ヶ月前にお参りした際は日の出は雨で全くだめでした。


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▶朝5時すぎです。

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▶やや曇っていて、日の出は見れませんでしたが、まあ満足です。

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▶この後、伊勢神宮にお参りするのですが、お祓いを受けることができなかったので、無垢塩草をいただきました。

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▶御朱印。前にお参りしたときにいただいたもので、日付が違います。

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