« 2008年6月 | トップページ | 2010年1月 »

2008年7月の8件の記事

2008年7月27日 (日)

堂島薬師堂(H20.7.27)

●堂島薬師堂(大阪市北区堂島1-6-20)
大阪駅から南に約500メートル行ったところにある北新地の西側、高層ビル「堂島アバンザ」の敷地にあるミラーガラスを127枚組み合わせた直径7mの球状の不思議な建物。 ここは、1400年以上の歴史の由緒ある堂島薬師堂です。
薬師堂とは、薬師如来を安置した御堂のことで、薬師如来とは、人々の病気を治し、安楽を得させる仏様。仏教の伝来以後、治病の仏として庶民に広く信仰されてきました。そんな薬師如来を安置した堂島薬師堂は、聖徳太子の時代に建立されたと伝えられています。また、元々この堂島辺りは、中洲でそこにこのお堂があったため、「堂島」の地名になったとも言われています。しかし、戦後、毎日新聞社が増築した際、敷地内に祀られていた薬師堂を敷地東向いの社有地に移設しました。平成11年に毎日新聞社屋跡に堂島アバンザを建設する際、奈良の薬師寺や地元の要請があり、再び元の場所に戻りました。
以前の御堂は瓦屋根の日本的な建物でしたが、新しい御堂はミラーガラスと石で構成した現代的なビルと調和を図るためモダンにデザインされました。形はミラーガラス127枚を組み合わせた直径7mの球状です。これにもちゃんと理由があり、球体は無限に広がる宇宙や天体、そして如来像の永久的なイメージを感じさせます。外装の黄金色のガラスは、御本尊として祀っている薬師瑠璃光如来にあやかっています。「瑠璃」は「ガラス」の意味があります。御堂の周囲には水鏡のような円形の池(直径20m)を巡らせ、池には蓮の花を模したオブジェをあしらうなど、様々な工夫が凝らされています。堂島薬師堂奉賛会から寄贈された「合掌」をモチーフとした燭台アートを設置、さらに欄干を兼用したベンチを設けています。御堂の下から霧を発生させ、夜間は池の照明を幻想的な空間となっています。平成16年3月19日に行なわれた第1回堂島薬師堂「お水汲み祭り」では、薬師堂の僧侶によって祈祷され、お香水で清められた竹筒護符が配られ、春と福を呼ぶ祭事が復活しました。
堂島は江戸時代には米市が設置され、現在は高層ビルが建ち並ぶオフィス街。そんな堂島で、薬師堂は栄枯盛衰を繰り返し、そして現在も月2回の法要があり、節分の日に、厄払いと鬼追い行事を行っています。普段でもお参りする人もいて、大変親しまれています。私の会社も堂島なのですが、本日はじめてお参りさせていただきました。

Dscf7754_800

Dscf7758_800
▶堂島アバンザ。堂島薬師堂は、この堂島アバンザの敷地の東側。新地の繁華街の西側に位置します。

Dscf7756_800
▶今も月2回、奈良薬師寺僧侶による法要が行われています。この案内板の裏に堂島薬師堂由来がかかれてあります。

堂島薬師堂 由来
西暦593年、推古朝のころの史料に「東は玉造り四天王寺をつくり、西の方州の中に御堂を建立」の記録があるという。また、延宝三年(1675年)に書かれた古文書「芦別船(あしわけぶね)」にも「聖徳太子が四天王寺創建時に、建築用材の運搬船が暴風雨で難破、州の中に流れつき、お堂を建てた」との記述があり、これが薬師堂の起源と言われている。
海上を航行する船から、このお堂がよく見えたところから薬師堂のある島が「堂島」の地名になったとも言われている。お堂内には、薬師如来像、地蔵菩薩像、弘法太師像など仏像4体と、ねはん図など軸二本がおまつりしてある。薬師如来像は室町時代の作と鑑定されているが、その由来は定かでない。また、弘法太師像は薬師如来像よりも歴史が古いと伝えられており、明治26年(1893年)からの大阪太師詣りの行事では薬師堂を第一番の霊場として、1日数十万人の参詣者で賑わうほどであった。
堂島薬師堂は堂島の世相、経済と連動しながら栄枯盛衰を繰り返し、現在は、月2回の法要と、節分の日に、厄払いと鬼追い行事を行っている。
平成11年3月

Dscf7746_800
▶参道?から境内?を入ったところに手洗場もあります。

Dscf7763_800

Dscf7757_800
▶堂島薬師堂。とても御堂とは思えません。

Dscf7751_800

Dscf7752_800

Dscf7749_800
▶堂島薬師堂内。ガラスの扉は普段は閉められています。薬師如来様・弘法大師様・地蔵菩薩様が祀られています。

Dscf7747_800

Dscf7748_800
▶御堂の扉の両脇に豊川稲荷大明神様と白龍辨財天様が向かい合って祀られています。

Dscf7762_800

Dscf7745_800
▶お堂に向かって左手の池の中に祀られている弁財天様。

Dscf7753_800
▶なんと「百度石」まであります。御堂のすぐ前のところにありますので、百回往復してもそんなにしんどくなさそうです。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

2008年7月23日 (水)

越木岩神社(H20.7.21)

●越木岩神社(西宮市甑岩町5-4)
越木岩神社は、創立不詳と言われるほど遠く古代より信仰を集めており、千年以上昔に編纂された延喜式神名帳に大国主西神社と記されているのがこの神社であろうと言われています。正保年間(1644年頃)に社殿が再建され、明暦二年(1656年)に円満寺の教順僧侶が「福神」の総本社西宮神社より蛭子大神を勧請し、蛭子太神宮と称しました。元々は当地にある甑岩等の磐座を祀ったもの。甑(こしき:セイロ)に似ていることから甑岩と呼ばれています。蛭児大神を勧請してから、甑岩は岩社として祀られています。

Dscf7673_800
▶正面の鳥居は震災で倒半壊し、翌年復興しました。

Dscf7743_800

Dscf7742_800

Dscf7674_800
▶旧鳥居は復旧復興の碑として保存されています。

Dscf7676_800
▶力石。

Dscf7678_800
▶境内にはヒメユズリハ群落、スダシイ=ヤブコウジ群落などの暖帯林が茂っていて、これらは大変貴重なもので、県の天然記念物に指定されています。

Dscf7683_800

Dscf7682_800
▶蛭子大神宮。現在のご本殿は昭和11年に、拝殿は昭和58年に造営されました。

Dscf7685_800
▶拝殿の左側に脇道があり、そこを行きますと、神の宿るという巨大な霊石「甑岩(こしきいわ)」につきます。 

Dscf7687_800
▶土社。御祭神は大地主大神。

Dscf7690_800
▶岩社。甑岩神祠・厳島神社の御分霊をお祀りしています。

Dscf7691_800

Dscf7692_800

Dscf7695_800

Dscf7697_800

Dscf7699_800

Dscf7702_800
▶この巨岩は、その形状から子授けの神様、安産の神様としても信仰され、全国的に知られています。周囲約40m・高さ10mの大岩。酒米を蒸す時に使う「甑(こしき)」という道具に似ていることから「甑岩(こしきいわ)」と名づけられ、昔から信仰の対象とされてきました。今から400年ほど前、豊臣秀吉が大阪城・築城に際し、城の石垣にする石を送るようにと全国の大名に命じます。この岩に目を付けたある大名が、人々の制止にも耳を貸さず、家来に命じて切り出しにかかったところ、ある日ノミを打ち込んだ岩の割れ目から白い煙が立ち昇り、それを吸った石切職人達は手足を震わせ、苦しみもだえて斜面をころがり落ち、やがて息絶えたそうで、即刻、石の切り出しは中止されたとも伝えられています。

Dscf7698_800
▶池田備中守長幸家紋。大阪城築城のために切り出そうとしていたときの城主の刻印。

Dscf7739_800
▶結局どうしても運び出せなかったそうで、境内に今でも当時の残岩が残っています。

Dscf7693_800
▶六甲山社。菊理姫大神をお祀りしています。

Dscf7707_800
▶稲荷社。白玉稲荷・大崎稲荷(伏見稲荷大社の御分霊)をお祀りしています。当社の大崎稲荷のお稲荷さんは、世間一般のキツネではなく、タヌキがお守りされているそうです。

Dscf7710_800
▶遥拝所。ここから伊勢神宮・宮中三殿、皇居にある賢所(かしこどころ)、皇霊殿(こうれいでん)、神殿(しんでん)・各社を遥拝できます。

Dscf7729_800
▶甑不動明王。ずいぶん以前から鎮座されていたようです。平成6年末、上半身の盗難にあい、平成9年に、現在のものに新調されました。今でも、後本体の背後に下半身のみのお姿が残っています。どちらも千葉の成田さんに抜魂・入魂をしていただいているそうです。

Dscf7723_800

Dscf7724_800
▶罔象免(みずはのめ)神社。罔象免大神(大古より湧き出でる霊水)をお祀りしています。境内のMapには水神社と記載されていました。松尾芭蕉も、この地を訪れ、『さざれ蟹 足這い上がる 清水かな』と詠いました。このご神水は、随分昔から(室町時代)病気に効能があると、汲みに来て飲用し、直ったと言う話が伝わっているそうです。今でも、飲用される方や、家の周囲にまく方、中にはうどん屋さんが釜の中に数滴入れて茹でると何とも言えないいい味が出るようになり、子授かりにも効果があったと言う話もあるそうです。

Dscf7720_800
▶甑岩からさらに奥にいくと貴船社があります。越木岩神社のHPでは雨乞社と記載されています。

Dscf7715_800
▶貴船社。貴船大神・龍神をお祀りしています。六甲山に残る「石の宝殿」を遥拝する祠とされています。祠の裏に長さ数mもある巨石群が、山のように積み重なっています。

Dscf7716_800
▶貴船社のさらに奥に進みます。

Dscf7718_800
▶古社 稚日女尊宮(わかひのめのみことのみや)。明らかに岩石信仰の残る場所で社境内の中でも最も最奥部にあります。ご神体甑岩が女性神で、境内地内における陰陽対称として崇めたてられている。男性神という説もあります。ここは北の磐座とも呼ばれています。

Dscf7737_800
▶甑岩への裏参道。

Dscf7735_800
▶裏参道横の祠。境内のMapにも記載がなく、御祭神等は不明です。

Img052_800
▶越木岩神社御朱印。

| | コメント (4) | トラックバック (0)

門戸厄神(松泰山東光寺)(H20.7.21)

●門戸厄神(松泰山東光寺)(兵庫県西宮市門戸西町2-26)
門戸厄神という呼び名の方が知られていると思います。阪急電鉄の駅名も門戸厄神です。正式名称は松泰山東光寺。 当寺は嵯峨天皇の勅願所として弘法大師により天長六年(829)に開基と伝えられています。東光寺という名称は薬師如来様の住む浄土、東方浄瑠璃世界から光を発せられる寺という意味で名付けられました。通称名である門戸厄神(厄神さん)と呼ばれることの方が多く、厄除祈願のお寺として広く親しまれています。
東光寺には、日本三体厄神の一つである日本三躰厄神明王(両頭愛染明王)が奉られています。寺伝によれば、嵯峨天皇の41歳の御厄年の時、愛染明王と不動明王が一体化し、諸々の災厄を打ち払い、魔障を打ち平らげる霊威を夢幻に感得したのを弘法大師がお聞きになり、大師自ら白壇木に愛染明王と不動明王が一体になった明王像を刻まれました。厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み弘法大師により厄除祈願が行われ、その際嵯峨天皇は愛染明王と不動明王が一体となって厄神明王となりあらゆる厄を打ち払うという霊感を得、空海に祈願を命じた。弘法大師は愛染明王と不動明王が一体となった厄神明王像(両頭愛染明王像)を三体刻み、一体は高野山の天野明神へ国家安泰として、次の一体は石清水八幡宮へ皇家安泰として、残る一体は一般庶民守護のためにお祀りされていますが、現在残っているのは東光寺のもののみとなっています。
毎月19日には厄神明王の縁日として行事が行われ、特に毎年1月18日・19日の厄神大祭と2月3日の星祭(節分)は、その年の前後に厄年を迎える人々を中心にした参詣者で大いに賑わいます。 また11月19日には人形供養も行われます。参道には屋台の店が並び、日ごろ静かな旧西国街道から参道にかけて人の波は途絶えることを知りません。 この年に厄除けをする人は男坂・女坂を上り境内に入り、厄神堂・大黒堂・愛染堂などにお参りします。 厄除開運以外にも家内安全・商売繁盛・無病息災など諸願成就の御霊徳があるとされています。

Dscf7671_800
▶阪急今津線軌道沿いの道から一つ西側の道を進むと、二基の常夜灯が立ち左折すると門戸厄神への参道があります。門戸厄神へ向かって右側の常夜灯脇に立てられているのがこの道標です。この道標は門戸厄神駅から西へ伸びる西国街道沿いに五十メートルほど進んだところに立てられていたらしい。立てられたのは大正11年1月。昭和34年に門戸厄神駅前整備で失われようとしていたこの道標を、元あった場所からここに移し保存されたものといわれます。

Dscf7669_800

Dscf7661_800
▶42段の男厄坂と呼ばれる厄年にちなんだ階段。この階段には一段一段登ることで厄を落とすという意味があります。

Dscf7662_800
▶表門。阪神大震災で全壊し再建されました。

Dscf7614_800
▶不動堂(護摩堂)。不動明王をお祀りしています。不動とは揺るぎない悟りの心のこと、また忿怒の相は、如何なるものでも屈服させ救済しようとする姿を表しています。このお堂で、そえ護摩のお焚き上げを行います。

Dscf7607_800
▶地蔵尊様と思われますが、詳しいことは解りません。

Dscf7612_800
▶子守地蔵尊。うしろの階段が女厄坂です。

Dscf7611
▶33段の女厄坂。

Dscf7649_800
▶中楼門。

Dscf7619_800
▶薬師堂。ご本尊薬師瑠璃光如来をお祀りしています。通称お薬師さん。その大願の一つに「私の名を聞けばいかなる病も悉く除かれ、身も心も安楽になる」といわれ、別名大医王とも呼ばれています。額には「瑠璃光殿」と書かれていました。

Dscf7617_800
▶薬師堂内部。

Dscf7624_800

Dscf7623_800
▶大黒堂・愛染堂。大黒天と愛染明王をお祀りしています。大黒天は大国主命になぞらえられて、円満なお顔の財福神として台所に祀られ、また七福神の一人で商売繁盛の仏様でもあります。当寺の大黒様は蓮の葉の帽子をかぶり、蓮の葉の台座に立っておられます。愛染明王は全身が赤色で愛情・愛欲を表し、煩悩そのまま菩堤心であることを悟らせ縁結びの本尊でもあります。

Dscf7647_800

Dscf7627_800
▶厄神堂。日本三躰の厄神明王をお祀りしています。

Dscf7634_800
▶延命魂(根)。高野山奥の院、弘法大師御廟近くの参道に、高さ60メートル、樹齢八百年を経た老杉が天空にそびえ立ち、お大師様を守護しておりました。生命をまっとうしたその杉根を、この度高野山金剛峯寺より当山へお下げ賜った霊木であります。800年もの永い間、幾千万人もの人々の祈りと神仏の魂がこもった霊木でありますので、延命や、病気平癒(全快)のご利益があります。「延命魂(根)」にふれ、さわり、ご自分の体の悪い所、あるいはお願い事を祈念しておかげを頂きます。

Dscf7636_800

Dscf7632_800
▶大師堂。真言宗の宗祖弘法大師空海上人をお祀りしています。

Dscf7633_800
▶大師堂の前の碑。詳細は解りません。

Dscf7640_800

Dscf7639_800
▶稲荷社。厄神堂の後ろに祀られています。稲荷社・奥の院の存在を知っている人はほとんどいないではないでしょうか?私も今回初めて知りました。

Dscf7641_800

Dscf7642_800
▶奥の院。稲荷社・奥の院についてはパンフレットにも詳細を記載されていないので、よく解りません。  

Dscf7643_800
▶奥の院横の仏様。詳細は解りません。

Dscf7653_800
▶弘法大師(修行大師)と四国八十八ヶ所。四国八十八ケ所は弘法大師を慕い、その御遺跡を遍礼せんとして始まりました。ここには四国各札所の砂を敷き、各本尊をお祀りしています。

Dscf7654_800

Dscf7655_800

Dscf7656_800

Dscf7657_800

Dscf7658_800

Dscf7659_800
▶手軽に八十八ケ所巡りをすることができます。

Img053_800
▶東光寺納経印。

続きを読む "門戸厄神(松泰山東光寺)(H20.7.21)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月19日 (土)

出雲大神宮(H20.7.16)

●出雲大神宮(京都府亀岡市千歳町千歳出雲無番地)
出雲大神宮は、国づくりの神話で有名な大国主命(オオクニヌシノミコト)とその后、三穂津姫命(ミホツヒメノミコト)を主祭神とする由緒ある神社です。ご祭神については、天津彦根命・天夷鳥命・三穂津姫命の三柱とする説や、元々は三穂津姫尊一柱のみであるという説もあります。大国主命については、出雲国の出雲大社(杵築大社)から勧請したとされるが、逆に出雲大社の方が当社より勧請を受けたものとする説もあり、「元出雲」とも呼ばれる。『丹波国風土記』には、「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す」との記述があります。
和銅2年(709)10月21日に社殿を造営とあり、それ以前から、存在していたと考えられています。社伝によると、ご鎮座は1万年以上前とも言われています。平安時代の延喜式神名帳には、名神大社、丹波国一の宮と定められ、深い信仰を集めてきました。また、農に関わる行事として、毎年1月には、1年の稲作の吉凶を占い、豊作を祈願する粥占祭(よねうらさい)が行なわれ、毎年4月には、鎮花祭が行なわれ、「出雲風流花踊り」が奉納されますが、これは、古くから日照りの害が多かったこの地域の雨乞い神事を起源としています。
旧社格は国幣中社で、戦後は神社本庁などの包括宗教法人に属さない単立神社となっています。旧称を出雲神社。京都バスのバス停も出雲神社になっていました。背後に「千年山」という神体山があることから「千年宮」とも呼ばれています。いわゆる出雲大社は明治時代に至るまで杵築大社と称していたため、江戸時代末までは、出雲神社と言えばこの出雲大神宮を指していました。吉田兼好が徒然草で記した「丹波に出雲と云ふ処あり」の「出雲」とはこの出雲大神宮のこと。
島根県の出雲大社は、日本最古の神社の一つといわれ、出雲信仰の総本社ですが、出雲大神宮の社伝では、この地から出雲の地へ分霊したとも伝えられています。大国主命は、天津神が地上に降臨してくるまで、地上界(葦原中つ国)を束ねる国津神の総領でした。この大国主命は、国津神が降臨してきた後に国を譲り渡し、その代わりとして出雲国(現島根県)の出雲大社に祀られることとなったのでした。三穂津姫命は高皇産霊神の娘であり、国譲りの際に大国主命と結婚した后神です。この2神を祀るため、現在では出雲大神宮は、縁結びに絶大な霊験を発する神社として知られるようになりました。江原啓之さんや李家幽竹さんがパワースポットとして紹介していることでも有名です。

Dscf7596_800

Dscf7594_800

Dscf7593_800

Dscf7580_800
▶手水舎。

Dscf7581_800
▶真名井の水。境内から湧き出るこのご神水は、飲めば幸福を招き長寿になるとされています。日本水質保健研究所によれば、古生代の石灰岩層をつたって火山噴火でできたマグマの接触変成岩層から湧き出ている水で、ミネラルがバランスよく含まれる極めて健康によい理想の水であるとするなど地質学的に実証されております。このような水は自然界の中でもほんの一部しか存在しないという事です。

Dscf7573_800
▶真名井の水のすぐ近くの夫婦岩。

Dscf7583_800
▶出雲大神宮は平成21年社殿創建1300年記念事業の大改修中でそのための寄付ののぼりです。一番下に李家幽竹さんのお名前がありました。

Dscf7514_800

Dscf7582_800

Dscf7512_800
▶拝殿からご本殿。拝殿は母屋造、妻入で本殿と同じく檜皮葺を施した舞殿形式の建物であり、明治11(1878)年に官費により造営されました。ここでは10月21日に斎行される例大祭や4月18日の花鎮祭に巫女による御神楽「浦安の舞」が奉納されます。

Dscf7510_800
▶現在の本殿は鎌倉時代末期の元徳年間、あるいは貞和元(1345)年に足利尊氏が修造した事が当時の史料から知られています。しかし近年、三枚の棟札が発見され、そのうち文安2年(1445)11月26日のものは「御願主源右享(京)大夫殿」とある点を考慮し、社殿造営に関して室町期に管領職として幕権を掌握した細川勝元との関係も考えられています。造りは中世神社建築に多く見られる三間社流造平入で、建坪十四坪弱、檜皮葺を施しており、明治39年(1906)に旧国宝、現重要文化財に指定されています。平面は正面に一間の向拝をもうけ、前庇を外陣、身舎を内陣・内々陣にあて、奥に行くに従い格式を高めています。外陣と内陣部分には高欄付きの縁をまわし、身舎側面の中央柱の所に脇障子を立てて見切り、身舎後半部には縁をまわしていません。

Dscf7511_800
▶御神木 招霊木(オカダマノキ)。暖地に生える常緑高木。京都府には自生種はまだ見つかっていない。オカダマというのは招霊(オギタマ)の意と言われ、神事に用いられてきた。花は香り高く、主に神社に植えられている。材は固く家具などに用います。この木は参拝者に神徳を与え、人々に幸福を授くと伝えられ、神宿る木として崇められてきました。樹齢1500年以上と推定されています。

Dscf7592_800
▶拝殿前のこの道から磐座・摂社末社にお参りします。

Dscf7517_800

Dscf7516_800

Dscf7518_800
▶しばらく行くと鳥居が見えてきます。

Dscf7521_800
▶春日社。御祭神は御雷之男神(タケミカヅチノオノカミ)天兒屋命(アメノコヤネノミコト)。
大国主命による国造りが完了して、皇孫に国譲りの際、天津神の使者として遣わされたのが建御雷之男神です。大国主命は御子神の事代主命に尋ねて決定すると伝え、事代主命はこれに賛同なされました。またもう一人の御子神である建御名方神がいると申し上げた所、その建御名方神は自分の国に来て勝手な事をしているのは誰だ、と建御雷之男神に力競べを挑みます。これに勝たれたのが建御雷之男神で、全国に多々お祀りされる春日社の御祭神として、また敗北された建御名方神は遠く諏訪の地に逃れられ、そこで皇室をお守りすると誓われました。た古来より祭祀を司ってきたのは藤原氏で、その祖と仰がれた天兒屋命をお祀りしています。建御雷之男神と共に春日大社の御祭神で、当宮ではその御分霊を奉斎しております。これは中世、藤原氏の一族、一条(後の西園寺)家が当宮の領家職であった事に由来します。

Dscf7523_800

Dscf7524
▶磐座。ご本殿の真後ろの山道にあります。目に見えない不思議な霊力を与えるとされています。李家幽竹さんのオススメのパワースポットらしいです。李家幽竹さんによると、「ここも、すご~く強いスポットですので、超おすすめデス。 本殿周りも、強いスポットなのですが、なんと言っても、本殿の裏にあるこの磐座がパワーの発生源だと思われます。岩の近くに行けるので、岩にふれたりしてパワーを体感してみて下さい。 」とのことです。

Dscf7529_800

Dscf7526_800
▶車塚古墳。ご本殿後方の山にある境内古墳。5世紀~6世紀書の前方後円墳と推定されており、後円部の残りは良く、円丘部分が確認できます。また、横穴式石室が保存のいい状態で開口しており、内部の様子が観察できます。 

Dscf7515_800

Dscf7550_800

Dscf7552_800

Dscf7571_800

Dscf7513_800
▶山の中の参道、境内の至る所でご神岩があります。

Dscf7533_800
▶稲荷社。

Dscf7534_800
▶稲荷社の横のみかげの滝。

Dscf7537_800
▶みかげの滝、横から。

Dscf7557_800
▶みかげの滝、上から。

Dscf7551_800
▶上の社。ご祭神は素戔嗚尊(スサノオノミコト)と櫛稲田姫尊(クシイナダヒメノミコト)。天照大神のお怒りをかい、高天原から追放された素戔嗚尊は出雲国に天降りまして、手名椎、足名椎神の女である櫛稲田姫尊を八俣大蛇の生贄から守り娶られました。その時に素戔嗚尊が詠まれた「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠めに 八重垣つくる その八重垣を」という和歌は最初の和歌と伝えられています。また記紀によれば素戔嗚尊の子、また5世あるいは6世が当宮主祭神の大国主命であると記されています。 上の社本殿は向拝を設けるなど出雲大神宮本殿を模倣した流造ですが、その造りは一間社と珍しい構造で、創建は文化10(1813)年と擬宝珠に刻まれています。

Dscf7553_800

Dscf7554_800
▶上の社から国祖磐座への道。

Dscf7565_800

Dscf7559_800
▶国祖磐座(大八洲国国祖神社)。

Dscf7560_800
▶本殿の後に、美しくそびえる御蔭山そのものが「出雲大神」として、太古より崇められていた御神体山で、この御蔭山は、国常立尊(くにとこたちのかみ)の身体そのものです。御影山は禁足地ですが、この磐座までは登ることが許されています。

Dscf7561_800

Dscf7562_800
▶神々が御降臨遊ばされたのは御神体山である御蔭山で、出雲大神宮の本殿が立てられる以前から公武を問わず、尊崇を集めてきました。古は千年山とも呼ばれた様に、永続の根本、つまり国の最も優れた中心地でありました。 御蔭山は国祖として知られる国常立尊がお鎮りになられ、『富士古文書』には当宮御祭神の三穂津姫命が御奉仕し、お隠れになられた折にはこの御蔭山に葬られたと記されています。丹波国風土記には、大八洲国国祖神社(おおやしまのくにのみおやのじんじゃ)と記され、また「元明天皇和銅年中、大国主命御一柱のみを島根の杵築の地に遷す。」とあります。

Dscf7574_800
▶拝殿前にあった大八洲国国祖神社の案内板。

Dscf7570_800
▶笑殿社。御祭神は、事代主命(コトシロヌシノミコト)と少那毘古名命(スクナヒコナノミコト)。事代主命は当宮の主祭神大国主命の御子神であり、皇孫に対する国譲りに功績のあった神様でありまして、託宣を司る御神徳で著名です。また少那毘古名命は国譲り以前の国造りに際して大国主命に御協力遊ばされ、共に温泉を衆庶に広めて医薬を教え、その完了後は常世国にお移りになられました。

Dscf7598_800

Dscf7600_800
▶辨財天社。御祭神は市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)。素戔嗚尊が天照大神への忠誠を示す為、誓約(うけい)が行われ、天照大神は素戔嗚尊の剣を砕いて息吹をお掛けになられたところ、三女がお生まれになられました。宗像大社にはこの三女神がお祀りされており、その一人の御分霊をお祀りしています。

Dscf7587_800
▶社務所後ろの祠。ご祭神は不明。

Dscf7576_800_2
▶西門。

Dscf7590_800
▶西門をでたところにある出雲庵という手打ちお蕎麦屋さん。そばの実を石臼で挽いたそば粉に当地の名水を加えて打ったそばは、コシと風味が絶品で非常に美味しかったです。ドクターコパさんや五木寛之さんなどの有名人の写真がいっぱいありました。

Img051_800
▶出雲大神宮御朱印。

続きを読む "出雲大神宮(H20.7.16)"

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年7月18日 (金)

錦天満宮から八坂神社御旅所・冠者殿社へ(H20.7.16)

●錦天満宮(京都市中京区新京極通四条上る中之町537)
錦天満宮の歴史は長保5年(1003年)、菅原道真の父親である菅原是善の旧邸「菅原院」を源融の旧邸・六条河原院の跡地に移築して「歓喜寺」が創建され、その鎮守社として創建されたのに始まると言われています。やがて、天正15年(1587年)、豊臣秀吉の都市計画のため、寺とともに錦小路東端の現在地に移転します。その所在地名から「錦天満宮」と呼ばれるようになり、明治の神仏分離により歓喜寺は東山五条に移り、神社だけが残されました。現在幅員3メートルの錦小路は平安時代には幅員12メートルもあったそうです。
錦天満宮は俗に錦の天神さんと呼ばれ、京の台所・錦小路を東に突き当たったところにあります。にぎやかな通りにあって、周囲に負けないくらい提灯を灯した明るい神社です。新京極通に面し、錦市場の端にあるという場所柄、学問だけでなく商売繁盛にもご利益があると言われていて付近の人々の信仰も厚い。

Dscf7503_800_2
▶新京極通に面し、錦市場の端に鎮座されています。

Dscf7480_800

Dscf7481_800

Dscf7482_800
▶寺町京極に面してこの一の鳥居があるのですが、隣のビルの2階に鳥居の端が建物に食い込んでいます。区画整理の際に道路の幅だけみて、鳥居の幅を考えなかったようです。昔なら屋根が低くてどうという事もなかったのでしょうね。

Dscf7500_800

Dscf7501_800

Dscf7496_800
▶神牛の像。多くの天満宮にはつきものなのですが、これはご祭神である菅原道真公が丑年に産まれた事に由来しているのだとか。道真公が太宰府で亡くなったとき、そのご遺体を牛車で運ぼうとしたのですが、途中で牛がどうしても動かなくなり、これを道真公のご意志と解釈してその地に埋葬しました。そこが現在の太宰府天満宮となった事から、牛を道真公の使いとするのだそうです。この神牛の像の頭や腰の色が変わっているのは、この像をなでるとその部分が良くなるとされているからです。大勢の人の願いが籠もっているのですね。

Dscf7491_800
▶牛の奥にある苔むした石組は、京都の名水にも選ばれたという「錦の社御香水」とも「錦の水」と呼ばれる名水が湧き出ています。これほど便利な場所にある名水も珍しく、遠くから汲みに来る人も多いようです。保健所お墨付きの飲用できる名水。

Dscf7492_800
▶手水舎。こちらも「錦の水」が湧き出ています。

Dscf7490_800
▶人が近づくと、神楽が鳴り出し獅子舞が始まり、お金を投入すると獅子がみくじを選ぶという「からくりみくじ」。金みくじ・和英文みくじ・和英文花みくじ・恋みくじ・こどももくじ・よろこびみくじの6種類あります。

Dscf7498_800
▶拝殿。

Dscf7489_800
▶拝殿内部。

Dscf7488_800
▶塩竈神社。

Dscf7486_800
▶日の出稲荷神社。

Dscf7485_800
▶白太夫神社。

Dscf7484_800
▶七社(八幡神社・床浦神社・市杵島神社・熊野神社・事比良神社・竈神社・恵美須神社)。


●八坂神社四条御旅所・冠者殿社(京都市下京区四条通寺町東入ル)
一般的に祇園祭といえば豪華で見応えのある7月17日の山鉾巡行ことをさしますが、祇園祭とは八坂神社のお祭りで7月1日に祭りの無事を祈る吉符入りの祭事から始まり7月29日の神事済奉告祭まで約1ヵ月間行われるお祭です山鉾巡行の日(7月17日)に山鉾が道を清めた後夕方に八坂神社の神様を神輿にのせ、八坂神社御旅所まで運ぶという神幸祭が行われます。御旅所とは、仮の宮または離宮ともいいます祭礼の際、本宮を出た神輿を迎えて仮に祀って置く場所のことをいいます。八坂神社御旅所は日本で二番目に生誕したという歴史ある新京極商店街の南側にあります。
   
Dscf7502_800
▶錦天満宮を出て、新京極商店街を下り、四条通りを越えると八坂神社御旅所があります。

Dscf7507_800
▶八坂神社御旅所東御殿。

Dscf7504_800
▶写真の八坂神社御旅所西御殿の左側、普段は「京の品 京の心 四条センター」というおみやげ屋さんがこの期間は御旅所に変身します。

Dscf7605_800
▶おみやげ屋さんが変身した御旅所には神様が休憩に来られるまでは、祇園さんのご祈祷済のグッズを販売しています。そこで前日の夜に「ちまき」を手にいれました。袋の「ちまき」についての説明文には次のように記載されています。
祇園祭の「ちまき」は洛北深泥ヶ池(みどろがいけ)付近の農家の人々が山から笹をとり中味なしで巻いて作る。「ちまき」の中味のないのが本来のものである。山鉾巡行に際して鉾上よろ囃子方が投げる「ちまき」を見物衆は争って之を拾い持ち帰って翌年の祇園祭に新しい「ちまき」と取替える迄の一年間門口につるし疫病難除とする。これに因んで御旅所及び社頭に置いて「ちまき」を授与している。
門口の淡い緑の「ちまき」は“おはらい”の信仰から生まれたものであると同時に京都の風物詩でもある。元来「ちまき」は和名「茅まき」で茅(ち=かや)に特別の霊性を認めた日本古来の考え方にたっていて厄難消除の為、門口につるしたものである。従って自らの罪けがれを祓い日々の行ないを清く正しくして神のみ心に叶う生活をする心がけのよすがである。

Dscf7505_800
▶冠者殿社は、八坂神社御旅所の西端横に立つ八坂神社の境外末社で、八坂神社のご祭神の素戔鳴尊の荒魂が祀られています。素戔鳴尊は、天照大神に対して身の潔白を誓約された神さまで、誓文払いの祖神として信仰されています。官者殿社と記されることもあります。
俗説には平家が滅びた後、源義経を暗殺するために源頼朝によって遣わされた討手・土佐坊昌俊(とさのぼうしょうしゅん)をも祀ると伝わります。源頼朝の命を受け義経の討っ手となった人物が土佐坊昌俊。土佐坊は熊野詣を装って上洛し、義経には本心とは裏腹に「自分は紀州熊野権現への参詣の途中に立ち寄ったもので、君に二心はない」と誓紙七枚を起請したと云います。三枚は八幡宮、一枚は熊野権現、三枚は誓いのしるしとして灰にして飲み下したとか。ところが、ところが、誓文をしたためながらも神をも恐れぬ所業で、夜陰に紛れ、義経の堀川邸を取り囲みます。土佐坊は奮戦するも義経の前に敵ではなかったようです。これが世に云う「堀川夜討ち」です。死にあたって土佐坊は「この後、忠義立てのために偽りの誓いをする者の罪を救わん」と願をかけたと言います。
そこからで商売の駆け引き上、客にうそをつく人々の守護神とされました。この事から冠者殿社には「起請返し」「誓文払い」の信仰が生まれたようです。今ではバーゲン、セールと云う言葉を使うことが多くなったですが、かつて商店などでは「誓文払い」と銘打って、蔵ざらえ、在庫一掃の安売りが行われていました。これも平素の商売上のかけ引きでついた嘘を祓い清めてもらうとの意味合いがありました。また毎年10月20日には、商人や遊女などが、平素商売の駆け引き上、客にうそをついた罪を祓い清めてもらうための参詣が行われ、祭として故事を伝えます。
それもいつしか、愛、恋の嘘も清めてもらえる神様へともなってゆき、幕末の頃、祇園や先斗町など花街の遊女達は、馴染みの客に愛の証として偽りの恋文、証文を書いたこと、嘘をついたことを清める参詣が行われるようになり、この参詣は一切無言で行わなければ願いは破れるとかで「無言詣」と呼ばれるようになります。「無言詣」は神幸祭の日から24日まで八坂神社御旅所に神様がいらっしゃる7日間祇園や先斗町の芸舞妓さんがはじめたというちょっと変わった願掛けです。四条大橋のたもとから八坂神社御旅所まで毎夜続けて7日間詣でると願い事が叶うといいます。その際守らなければならないことがひとつだけあります。決して口を聞いてはいけません知人に逢っても、何があっても無言で詣でなければなりません。これも今は祇園祭の頃、御旅所に神輿が留まる七日七夜にわたり行われるようにもなっています。
繁華街の中にある小さな社ですが、奥深い歴史があるのですね。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月 6日 (日)

綱敷天神社・綱敷天神社御旅社・歯神社(H20.7.5)

●綱敷天神社(大阪市北区神山町9-11)
綱敷天神社は、別名「喜多埜天神(キタのてんじん)」と呼ばれ、梅田キタの氏神さまと慕われています。 この神社の周辺は古来より、梅の木が沢山あったと見え、梅田、梅ヶ枝町などの地名が残っています。
弘仁13年(822)嵯峨天皇が兎餓野に行幸したことに由来し、同天皇崩御後、その追悼のため左大臣源融が承和10年(824)に現在地に社殿を創建し、嵯峨天皇の諱である神野(かみぬ)をとり「神野太神宮」と称した。現在の社名は、延喜元年(901)菅原道真が大宰府に左遷の際、この地に今は盛りと咲いていた紅梅に目を留め、これを観賞するため船の艫綱(ともづな)を円く円座状に敷いて休息したことに由来し、神社の名前を「網敷天神社」と称せられるようになりました。
正暦4年(993)、冤罪の晴れた菅原道眞公の神霊に対し、正一位を追贈された事により、当改めて社殿を建立する事となり、神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、「北野(喜多埜=キタの)天神社」と称されるようになりました。この「喜多埜」が「キタ」となり、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったと伝えられています。

Dscf7401_800

Dscf7400_800

Dscf7412_800
▶拝殿。大東亜戦争末期の空襲で社殿は灰燼に帰しましたが、神宝の御綱と御影は戦災を免れました。現在の社殿は昭和31年の再建。

Dscf7410_800
▶ご本殿うしろから。

Dscf7408_800
▶筆塚。三筆のお1人、嵯峨天皇と三蹟のお1人菅原道眞公を御祭神にお祀りする由縁から、書道の神さまとして信仰篤く、その御神徳を偲んで、菅公御神忌1075年祭の折に、当神社の崇敬家であられる中野隆雄氏より奉納された石碑です。

Dscf7407_800
▶従軍記念碑。この石碑は明治27、8年に日清戦争への従軍兵士として北野村から出征した氏子の無事を祈念して建立されたもので、石碑裏面には出征された方々の名前が刻まれています。この碑は太平洋戦争後、軍国時代の遺物であるとして、廃棄処分となる予定でしたが、国家の為に個を公に奉じて出征した人々の思いを偲び、崇敬者らの手により密かに地中に埋められ、いつか出征された兵士の思いを偲ぶ事を憚らない時代が来るまでの間、境内地に埋められていました。昭和52年の菅公御神忌1075年祭に当たり、記念のためこれを掘り起こし、再建立したとのことです。

Dscf7409_800
▶牛舎。天神さまこと菅原道真公をお祀りしている神社には必ずといっていい程、牛の像がお祀りされています。これはお稲荷さんならキツネ、八幡さまなら鳩、春日さんなら鹿というのと同じで、天神さまなら牛がお使いの動物といわれる為です。道真公は丑年のお生まれであり、伝説では丑の月の丑の日の丑の刻のお生まれであった為であるとか。

Dscf7413_800
▶喜多埜稲荷神社。現在では、農耕神としての信仰ではなく商売繁盛の神さまとして信仰篤く、キタで会社を営む方々からは特に深く信仰されています。喜多埜稲荷神社の両脇にあるこの石橋は萬載橋と呼ばれる橋で、安政年間の文字が見えることから、江戸末期に作られた橋と思われます。

Dscf7415_800
▶白龍社。白龍大神と猿田彦大神とを合わせ祀るお社です。元々は喜多埜稲荷神社の裏手に鎮座いたしておりましたが、近年の社地整理の折にこの地に移動しました。方除、災難除けの神さまとして、当社の裏鬼門の守り神として今も御鎮座されておられます。


●歯神社(大阪市北区角田2-8)
綱敷天神社末社 歯神社と称し、今から数百年前に梅田一帯が大洪水に見舞われ、あわや水没するかにみえた折、地元の人間がお祀りしていたお稲荷さんの御神体である巨石(本殿地中深くに鎮座)が、流れ来る水を歯止めし、梅田の水没を防いだことから、歯止めの神さまとして慕われました。のちに歯止めの語呂が転じて歯痛止めにご利益があるお社といわれ、いつの頃からか歯神社とよばれるようになりました。また先の大戦の折、大阪は大空襲に見舞われ、梅田一帯は火の海となりましたが、この折も歯神社までは火が届かず、戦火を歯止めしたともいわれています。
現在では、全国の歯科医はもとより、歯ブラシ、歯磨き粉、歯に関するガム、入れ歯、歯科技工士など歯に関わる老若男女の参拝が絶えずあり、歯の大神さまとして慕われています。

Dscf7418_800
▶エスト1とヘップファイブの間の超一等地に鎮座されています。無人の祠です。


● 綱敷天神社御旅社(大阪市北区茶屋町12-5)
綱敷天神社 御旅社と称し、今から一千百年ほど昔の、延喜元年(901)に、菅原道眞公が無実の罪をきせられ京都より九州の太宰府へと左遷された際に、この梅田の地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、それをご覧になるため、乗ってこられた船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円く円座状に敷いてご覧になられました。その由縁より、「綱を敷く」という意味から「綱敷天神社」と称され今に至っております。
「御旅社」といいますのは、神様の別荘のようなもので、綱敷天神社御本社の神様が夏の渡御祭の際に、地元梅田の町が平穏であるかどうかご覧になられ、その時にお休みになられる為のお社が御旅社です。この御旅社は元々御本社の南にあり、古くには「梅塚天神」とも称され、菅原道眞公がご覧になられた紅梅がありましたが、明治の初年頃にこの梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいと土地の寄進があり、現在の地に鎮座致しました。故に臨時で設けられる普通の御旅所とは異なり、常に御祭神が鎮座まします御旅所という事で、御旅社と呼ばれるようになっています。

Dscf7422_800

Dscf7421_800
▶阪急線沿いに鎮座されています。阪急線の拡張により境内地の整備を二度行われるなど、梅田の近代化の波にもまれた複雑な経緯をもつお社です。

Dscf7428_800
▶鳥居をくぐるとすぐに階段で、階段を上ったところがご社殿です。

Dscf7427_800
▶拝殿。境内に奥行きがないので、全体を撮影できません。

Dscf7429_800
▶ご本殿横から。

Dscf7424_800

Dscf7425_800
▶玉姫稲荷神社。現在は御旅社内の末社としてお祀りされていますが、御旅所が梅ヶ枝町(現在の西天満6丁目)から当地に遷座する明治期までは茶屋町の産土神として御茶屋で働く女性の守り神さまとして崇敬をあつめていた神社であったようです。現在のご社殿は昭和57年の御旅社造替の際に建て替えられたもので、流れ作りの御社殿になっており、近年では、梅田の縁結びの神さまとして若者を中心に慕われています。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

2008年7月 5日 (土)

堀川戎神社から龍王大神(H20.7.5)

●堀川戎神社(大阪市北区西天満5丁目4-17)
堀川戎神社は、大阪市内および近畿一円では、大阪市内南部の今宮戎神社および兵庫県の西宮戎神社などと共に商売繁盛の神様として知られています。「堀川のえべっさん」として知られ、毎年1月9日から11日にかけて十日戎(とおかえびす)が開催されます。
欽明天皇の御代、止美連吉雄が蛭子大神の神託により堀江で玉を得、それを神体として富島に蛭子大神を祀ったのに始まります。当時は瓊見社(たまみのやしろ)・止美社(とみのやしろ)と呼ばれて、白雉2年(651年)に少彦名命(淡島明神)、大宝3年(703年)に天太玉命を配祀。のち平治の乱(1159)を避け、丹波国山家に動座されましたが、文和年間(1352年~1355年)神主・藤原吉次が現在地に遷座再興しました。以来、蛭子社・恵美須社・堀川戎社と呼ばれ信仰厚く、殊に江戸時代中期からの十日戎は盛大となり、諸人群参したと記されています。明治40年数社を合併、堀川神社となり村社に列した。昭和二十年戦災で社殿始め全建物を焼失しましたが、順次復興し、昭和38年本殿を再建し、ミナミの今宮、キタの堀川と並び称されるようになりました。そして明治40年、数社を合併、堀川神社となり村社に列しました。昭和20年の戦災で社殿始め全建物を焼失しましたが、順次復興し、昭和38年現在の御本殿を再建しました。

Dscf7372_800

Dscf7369_800
▶表門。鳥居の前の道は阪神高速道路が走っています。

Dscf7373_800
▶北門。

Dscf7358_800
▶北門を入ったところにある御神木。

Dscf7359_800
▶手水鉢。変わった形状をしています。

Dscf7362_800
▶拝殿。

Dscf7365_800
▶拝殿からご本殿。祭神は蛭子大神、少彦名命、天太玉命。

Dscf7360_800
▶境内摂社。提灯には淡島神社をはじめ、松尾・工匠神社、大国主・菅原社・皇大神・幸神社などの名が記載されており、明治40年に合併した神社の名前と思われます。

Dscf7364_800
▶福興戎像。平成7年1年17日の阪神淡路大震災で破断した表門石造鳥居(昭和2年奉納)の柱に彫刻されており、平成10年の十日戎に奉納され、平成12年、「幸いを与える」の「福」と、「生ずる・起きる・盛んになる」の「興」を付けた「福興戎像(ふくこう・ふくおこしえびす)」の応募名称を採用し命名されました。 被災鳥居から蘇った由来をもって、除災招福の象徴として、広く崇敬者の心の支えとなっています。

Dscf7361_800
▶榎木神社、通称、地車稲荷神社。昔、この榎の大木に、吉兵衛という狸が棲んでいたんだそうです。榎の大木の根元には吉兵衛という老狸が住んでおり、毎夜、決まった時間に地車囃子の真似をしていたと伝えられる。本殿が地車型なのはそのためである。地車稲荷の神使は狐ではなく狸である。願い事が叶うとその夜に地車囃子が聞こえるとされ、願いが叶ったお礼として地車の模型や絵馬を奉納する習わしとなっています。

Dscf7356
▶他に類を見ない地車のご本殿。

Dscf7355
▶だんじりのご本殿の後ろにも稲荷社が祀られています。


●龍王大神(太融寺)(大阪市北区野崎町8)
扇町通りを神山町交差点を右折すると、広い道路の真ん中に玉垣で囲まれた大きなイチョウの木と祠があります。灯籠の柱には「太融寺」の文字があります。昔はこの辺りも太融寺の境内で、この道路を作るときイチョウの木を切り倒そうとして斧を入れた人すべてが変死したという曰くのあるイチョウで、いまもこのイチョウの幹の周りには斧を入れた後が2、3か所根元近くに残っています。祟りを恐れた人々がこのイチョウをご神木として祀り、龍王大神として今も篤く信仰されています。太融寺境内には本堂の他に空海(弘法大師)を祀る大師堂、不動明王を祀る不動堂、多くの女性の信仰を集める淀殿の墓所、その墓所を守るかのように隣には雌神を祀る白龍大社があり、また、縁結びの神としても信仰を集めており、女性は太融寺境内の白龍大神、男性は境内の外れに祀られるこの龍王大神にお参りするとよいとされています。

Dscf7375_800

Dscf7389_800
▶道路が不自然にこの社を避けるように曲がっています。

Dscf7378_800
▶太融寺の文字が見えます。

Dscf7387_800

Dscf7385_800
▶この御神木に「蛇が巻き付き、このご神木を守っていた。」らしく、「巳さん」と地元の古くからの人は呼んでいるらしいです。

Dscf7382_800
▶斧を入れた跡が、根元近くに残っています。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

吉田神社・宗忠神社(H20.6.27)

●吉田神社(京都市左京区吉田神楽岡町30番地)
貞観元(859)年、藤原山蔭卿が平安京の都の守護神として、藤原氏の氏神である奈良の春日社四神を勧請し、都の東北(表鬼門)に位置する吉田山に創建されました。この吉田山は、別名「神楽岡」と呼ばれ、古くから霊域として崇められ、東山三十六峰の一つにも数えられています。
後に、平安京における藤原氏全体の氏神として崇敬を受けるようになりました。永延元年(987年)より朝廷の公祭に預かるようになり、正暦2年(991年)には二十二社の前身である十九社奉幣に加列されました。鎌倉時代以降は、卜部氏(後の吉田氏)が神職を相伝するようになった。室町時代末期の文明年間(1469年 - 1487年)には吉田兼倶が吉田神道(唯一神道)を創始し、その拠点として1484年、境内に末社・斎場所大元宮を建立しました。近世始めには吉田兼見が、かつて律令制時代の神祇官に祀られていた八神殿(現在はない)を境内の斎場に移し、これを神祇官代とした。吉田家は全国の神社の神職の任免権などを持ち、明治になるまで神道界に大きな権威を持っていた。
また、山の中腹には、全国の神を祀る斎場所大元宮があります。この御殿は八角形であり、その造りは種々の特異な形式を持ち、その総ては、吉田神道の原理に基づき創建されたと伝えられ、日本国中の神のご加護に預かれる。日本国中(3132座)の神を祀る大元宮は、全国に類を見ない荘厳雄大な建物であり、重要文化財に指定されています。
当神社に仕えた吉田家は、近世まで神社界の総家と仰がれ、全国の神主に宗源宣旨、裁許状を授けた。「徒然草」の吉田兼好もその一門です。

Dscf7200_800_2
▶京都大学前にある石標。

Dscf7201_800
▶一の鳥居。

Dscf7203_800

Dscf7354_800

Dscf7209_800

Dscf7351_800
▶この参道石段を登り、左手に本宮が見えます。

Dscf7207_800
▶夏越の大祓の茅の輪の準備でしょうか?

Dscf7345_800
▶本宮前、なにか謂れがある場所なのでしょうか?

Dscf7344_800_2
▶本宮前の御神木。

Dscf7211_800
▶本宮拝殿。

Dscf7210_800
▶本宮拝殿からご本殿。

Dscf7215_800
▶神楽岡社。祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)、大山祇神(おおやまづみのかみ)、高オカミの神(たかおかみのかみ)の三神。鎮座の年代は詳でないが、延喜式に霹靂神、神楽岡に坐すと記してあり、神楽岡地主の神、又雷除の神として崇敬厚く、同町の氏神です。

Dscf7218_800
▶若宮社。天之子八根命の御子で天孫のために天二上に上りまして御膳水を請うて献奉り給うた水徳の神で、初め本社の第二殿と第三殿の間に無社殿で祭られてあったのを、後醍醐天皇延元元年、吉田兼熈が社殿を建て慶安元年(1648年)現地に造営、明治10年摂社に定められました。

Dscf7223_800
▶神鹿像。昭和32年、吉田神社御鎮座千百年記念事業の一つとして、境内の一角に鹿を遊ばせたが、鹿の増加と周辺地区への配慮から打ちきられ、その後、昭和60年、神鹿として鋳造されました。

Dscf7342_800_2
▶国歌君が代に詠まれた「さざれ石」。ここに置かれているさざれ石は、竹下内閣の時の「ふるさと創生」記念事業の一環として、岐阜県春日村から奉納されたもの。

Dscf7226_800
▶菓祖神社。祭神は田道間守命、林浄因命のニ神を祀る。昭和32年、京都菓子業界の総意により創建されました。境内を菓子業者の石柱が囲んでいます。

Dscf7229_800
▶菓祖神社拝殿。

Dscf7231_800
▶菓祖神社ご本殿。

Dscf7235_800
▶山蔭神社。吉田神社創建に貢献された藤原山蔭卿を祀る社で、山蔭卿は調理・調味づけに秀でたと言われており、料理飲食の祖神として、多くの料理店や業界の方々等の信仰を集めております。昭和32年全国の料理関係者が創建に協賛しました。

Dscf7238_800
▶三社社。祭神は多紀理毘売命、狭依毘売命、多岐津毘売命、金山毘古命、金山毘売命、菅原神の六神を祀る。初め吉田家の邸内に鎮祭してあったのを仁孝天皇弘化元年(1844年)現今の地に遷座。

Dscf7338_800
▶神龍社。通称100段と呼ばれるこの石段を登りつめたところに、南を向いて鎮座されています。

Dscf7331_800
▶でも、お留守とのことでしたのでお参りはしませんでした。

Dscf7339_800
▶神龍社前の神池のほとりの祠。祭神不明。

Dscf7349_800
▶今宮社。祭神は、大己貴神、大山祇神、健速須佐之男命。古くから木瓜大明神と称し吉田町の産土神です。

Dscf7205_800_2
▶祖霊社。

Dscf7242_800
▶斎場所大元宮。「大元宮」は節分詣発祥の社とされており、毎年2月2日~3日には節分の神事が行われることで有名であり、厄除け祈願の参拝者が多数訪れます。大元宮の祭神は天神地祇八百萬神(あまつかみくにつかみやおよろづのかみ)とされ、全国の神様3,132のご神体を祀っています。

Dscf7243_800
▶大元宮中門。

Dscf7247_800_2
▶斎場所大元宮ご本殿。八角形の社殿が特徴とのことですが、門が閉まっていて中をうかがうことはできませんでした。中門の穴から撮影しました。

Dscf7249_800
▶竹中稲荷社への参道。

Dscf7250_800

Dscf7254_800

Dscf7255_800
▶竹中稲荷社へ山道を通っていくことにしました。でも、迷ってしまいました。結局、元の鳥居まで戻ってから行きました。

Dscf7307_800

Dscf7303_800
▶竹中稲荷社。祭神は宇賀御魂神、猿田彦神、天鈿女神の三神を祀る。鎮座および由来は不明。古紀に「在原業平の居を神楽岡稲荷神社の傍(かたわ)らに卜(ぼく)す云々」とあり、天長年間既に社殿の在った事が知られている。

Dscf7257_800
▶天満宮。竹中稲荷社の西側に鎮座。地福院に奉祀されてあったのを嘉永五年(1852年)現地に遷座。

Dscf7290_800

Dscf7291_800

Dscf7293_800

Dscf7288_800

Dscf7296_800

Dscf7299_800

Dscf7302_800

Dscf7283_800
▶竹中稲荷社の裏には塚や祠が多数祀ってあり,独特の雰囲気を醸し出していました。人影はなくひっそりと静まりかえっており、夜であればとんでもなく怖いと思います。吉田神社の案内図にも記載されておらず、詳細は全く不明です。

Img035_800
▶吉田神社御朱印。


●宗忠神社(京都府京都市左京区吉田下大路町63)
黒住宗忠は嘉永3年(1850年)に歿し、安永3年(1856年)に朝廷から「宗忠大明神」の神号が与えられた。文久2年(1862年)、宗忠の門人の赤木忠春らが、吉田神社より社地の一部を譲り受けて宗忠を祀る神社を創建しました。慶応元年(1865年)には朝廷の勅願所となり、、皇室や二条家、九条家から篤い崇敬を受けました。明治時代には県社に列格。
流造のご本殿は明治45年(1912年)に改築されたもので、また拝殿も昭和12年(1937)に改築されたものである、ご本殿の北には、二条家より遷された天照大神を祀る神明宮があります。他に、白山比咩大神を祀る白山社、赤木忠春(赤木忠春神)を祀る忠春社があります。

Dscf7312_800

Dscf7311_800

Dscf7329_800

Dscf7315_800
▶神井戸。境内に この神井戸の由来が書かれていました。
神社が鎮座して間もない頃、境内に井戸を掘ることになった。この土地は山の上であることから、人夫たちが「掘るのは掘るが、水が出ませんよ」と言うのを、とにかく三十尺(約10m)だけ掘らせました。案の定、水は一滴も出ません。さて、赤木忠春(黒住宗忠の高弟で当社建立の第一の功労者)は、人夫たちに「明日の朝に来て、見てください」と告げ、その夜ご神前に供えた御神水を空井戸に注ぎ、一心に祈りました。翌朝、人夫が小石を井戸に投げ込むと「ドボン」と音がします。水が涌き出ていたのです。それ以来、コンコンと湧き続けましたが、神社に何かご神慮に適わぬことが起こると水が濁ると言われてきました。まさに神楽岡の霊水として珍重されている。

Dscf7316_800
▶拝殿。

Dscf7328_800
▶拝殿の中。手前が上社(神明宮)で、奥が黒住宗忠が祀られているご本殿。

Dscf7323_800
▶ご本殿。

Dscf7327_800
▶神明宮ご本殿。天照大神を祀る。

Dscf7321_800_2
▶忠春社。祭神は赤木忠春神。宗忠大明神の高弟で美作(岡山県久米郡)の生まれ。宗忠大明神の大道宣布のため、幕末の動乱の京師に勤皇の大儀を貫き、国事のためにも寄与したとされる。

Dscf7326_800
▶白山社。加賀国の霊峰白山を神体山とする白山比咩大神を祀る。この土地を鎮護する神として、古くから鎮座する。

| | コメント (6) | トラックバック (0)

« 2008年6月 | トップページ | 2010年1月 »