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2008年7月 6日 (日)

綱敷天神社・綱敷天神社御旅社・歯神社(H20.7.5)

●綱敷天神社(大阪市北区神山町9-11)
綱敷天神社は、別名「喜多埜天神(キタのてんじん)」と呼ばれ、梅田キタの氏神さまと慕われています。 この神社の周辺は古来より、梅の木が沢山あったと見え、梅田、梅ヶ枝町などの地名が残っています。
弘仁13年(822)嵯峨天皇が兎餓野に行幸したことに由来し、同天皇崩御後、その追悼のため左大臣源融が承和10年(824)に現在地に社殿を創建し、嵯峨天皇の諱である神野(かみぬ)をとり「神野太神宮」と称した。現在の社名は、延喜元年(901)菅原道真が大宰府に左遷の際、この地に今は盛りと咲いていた紅梅に目を留め、これを観賞するため船の艫綱(ともづな)を円く円座状に敷いて休息したことに由来し、神社の名前を「網敷天神社」と称せられるようになりました。
正暦4年(993)、冤罪の晴れた菅原道眞公の神霊に対し、正一位を追贈された事により、当改めて社殿を建立する事となり、神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、「北野(喜多埜=キタの)天神社」と称されるようになりました。この「喜多埜」が「キタ」となり、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったと伝えられています。

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▶拝殿。大東亜戦争末期の空襲で社殿は灰燼に帰しましたが、神宝の御綱と御影は戦災を免れました。現在の社殿は昭和31年の再建。

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▶ご本殿うしろから。

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▶筆塚。三筆のお1人、嵯峨天皇と三蹟のお1人菅原道眞公を御祭神にお祀りする由縁から、書道の神さまとして信仰篤く、その御神徳を偲んで、菅公御神忌1075年祭の折に、当神社の崇敬家であられる中野隆雄氏より奉納された石碑です。

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▶従軍記念碑。この石碑は明治27、8年に日清戦争への従軍兵士として北野村から出征した氏子の無事を祈念して建立されたもので、石碑裏面には出征された方々の名前が刻まれています。この碑は太平洋戦争後、軍国時代の遺物であるとして、廃棄処分となる予定でしたが、国家の為に個を公に奉じて出征した人々の思いを偲び、崇敬者らの手により密かに地中に埋められ、いつか出征された兵士の思いを偲ぶ事を憚らない時代が来るまでの間、境内地に埋められていました。昭和52年の菅公御神忌1075年祭に当たり、記念のためこれを掘り起こし、再建立したとのことです。

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▶牛舎。天神さまこと菅原道真公をお祀りしている神社には必ずといっていい程、牛の像がお祀りされています。これはお稲荷さんならキツネ、八幡さまなら鳩、春日さんなら鹿というのと同じで、天神さまなら牛がお使いの動物といわれる為です。道真公は丑年のお生まれであり、伝説では丑の月の丑の日の丑の刻のお生まれであった為であるとか。

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▶喜多埜稲荷神社。現在では、農耕神としての信仰ではなく商売繁盛の神さまとして信仰篤く、キタで会社を営む方々からは特に深く信仰されています。喜多埜稲荷神社の両脇にあるこの石橋は萬載橋と呼ばれる橋で、安政年間の文字が見えることから、江戸末期に作られた橋と思われます。

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▶白龍社。白龍大神と猿田彦大神とを合わせ祀るお社です。元々は喜多埜稲荷神社の裏手に鎮座いたしておりましたが、近年の社地整理の折にこの地に移動しました。方除、災難除けの神さまとして、当社の裏鬼門の守り神として今も御鎮座されておられます。


●歯神社(大阪市北区角田2-8)
綱敷天神社末社 歯神社と称し、今から数百年前に梅田一帯が大洪水に見舞われ、あわや水没するかにみえた折、地元の人間がお祀りしていたお稲荷さんの御神体である巨石(本殿地中深くに鎮座)が、流れ来る水を歯止めし、梅田の水没を防いだことから、歯止めの神さまとして慕われました。のちに歯止めの語呂が転じて歯痛止めにご利益があるお社といわれ、いつの頃からか歯神社とよばれるようになりました。また先の大戦の折、大阪は大空襲に見舞われ、梅田一帯は火の海となりましたが、この折も歯神社までは火が届かず、戦火を歯止めしたともいわれています。
現在では、全国の歯科医はもとより、歯ブラシ、歯磨き粉、歯に関するガム、入れ歯、歯科技工士など歯に関わる老若男女の参拝が絶えずあり、歯の大神さまとして慕われています。

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▶エスト1とヘップファイブの間の超一等地に鎮座されています。無人の祠です。


● 綱敷天神社御旅社(大阪市北区茶屋町12-5)
綱敷天神社 御旅社と称し、今から一千百年ほど昔の、延喜元年(901)に、菅原道眞公が無実の罪をきせられ京都より九州の太宰府へと左遷された際に、この梅田の地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留められ、それをご覧になるため、乗ってこられた船の艫綱(陸と船をつなぐ綱)を円く円座状に敷いてご覧になられました。その由縁より、「綱を敷く」という意味から「綱敷天神社」と称され今に至っております。
「御旅社」といいますのは、神様の別荘のようなもので、綱敷天神社御本社の神様が夏の渡御祭の際に、地元梅田の町が平穏であるかどうかご覧になられ、その時にお休みになられる為のお社が御旅社です。この御旅社は元々御本社の南にあり、古くには「梅塚天神」とも称され、菅原道眞公がご覧になられた紅梅がありましたが、明治の初年頃にこの梅田・茶屋町の氏神さまとしてお迎えしたいと土地の寄進があり、現在の地に鎮座致しました。故に臨時で設けられる普通の御旅所とは異なり、常に御祭神が鎮座まします御旅所という事で、御旅社と呼ばれるようになっています。

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▶阪急線沿いに鎮座されています。阪急線の拡張により境内地の整備を二度行われるなど、梅田の近代化の波にもまれた複雑な経緯をもつお社です。

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▶鳥居をくぐるとすぐに階段で、階段を上ったところがご社殿です。

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▶拝殿。境内に奥行きがないので、全体を撮影できません。

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▶ご本殿横から。

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▶玉姫稲荷神社。現在は御旅社内の末社としてお祀りされていますが、御旅所が梅ヶ枝町(現在の西天満6丁目)から当地に遷座する明治期までは茶屋町の産土神として御茶屋で働く女性の守り神さまとして崇敬をあつめていた神社であったようです。現在のご社殿は昭和57年の御旅社造替の際に建て替えられたもので、流れ作りの御社殿になっており、近年では、梅田の縁結びの神さまとして若者を中心に慕われています。

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コメント

こんばんは!

綱敷天神社御旅社は、いつも梅田から茶屋町に行くときに気になってました。

神戸の須磨や御影にも「綱敷天神」さんがあって馴染みがあるので、ついつい親近感を持ってしまいますhappy01

投稿: きみー | 2008年7月10日 (木) 23時32分

きみーさん こんばんは!

コメントありがとうございます。

綱敷天神社御旅社何年も前から横はよく通っていたのですが、
参拝してみて、境内の狭さにびっくりでした。
摂社の玉姫社は一人でしかお参りできません。

先週、御旅社で七夕祭りをされたようですが、
多くの人が参拝した場合どうなるんでしょうね。

境内はいつも綺麗にされていて、
若い女の子が参拝している姿をよく見ます。

投稿: 神在月 | 2008年7月12日 (土) 06時05分

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