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2008年6月の19件の記事

2008年6月28日 (土)

白峯神宮から幸神社(H20.6.27)

●白峯神宮(京都市上京区今出川通堀川東入ル飛鳥井町261番地)
奈良時代の淳仁天皇、平安時代末の崇徳天皇を祀る。功績は厚いながらも非業の死を遂げた両天皇の霊を鎮めるために創建されました。明治天皇の命で創建された比較的新しい神社です。祭神は、保元の乱に敗れて讃岐に流され、その地で歿した「崇徳上皇」と藤原仲麻呂の乱に巻き込まれて淡路に配流されてそこで亡くなった「淳仁天皇」。
幕末の動乱期、孝明天皇は讃岐の白峯陵に祀られている崇徳上皇の霊を慰めるため、その神霊を京都に移すよう幕府に命じたが、その後間もなく崩御。子の明治天皇がその意を継ぎ、現在地に社殿を造営し、明治元年(1868)8月、御影堂の神像を移して神体とし白峯宮を創建。のち淳仁天皇も合祀されました。昭和15年に官幣大社に昇格。
白峯神宮の社地は、蹴鞠の宗家であった公家・飛鳥井家の屋敷の跡地である。摂社の地主社に祀られる精大明神は蹴鞠の守護神であり、現在では「まりの神様」として崇敬されサッカーのほか、球技全般およびスポーツの守護神とされ、サッカーをはじめとするスポーツ関係者の参詣も多く、社殿前にはサッカーやバレーボールの日本代表チームや、Jリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られます。平成13年には、蹴鞠の碑が建立され、球技の上達を願う中高生らが後を絶たないという。サッカーワールドカップのフランス大会で日本が初出場した際に新聞やテレビで紹介されたのをきっかけにして、京都以外からも多くの人が参拝に訪れてます。

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▶今出川通りに面した南向きの門

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▶夏越の大祓の茅の輪の準備がされていました。

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▶京都は応仁の乱をはじめ、幾度も戦乱や火災に遭っているので、中心部は樹齢500年を越す木はほとんど存在しない。この樹齢800年の小賀玉の御神木は近隣の住民が身を挺して火災から守ってきたとされ、現代まで生き残ってきた市街地では貴重な老木です。この木が京都では最大のもので、京都市指定天然記念物に指定されています。

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▶「三葉の松」は全国でも珍しく、その姿から「夫婦和楽・家内安全」を象徴して、その松葉は黄金色になって落葉し、身につけると「金運」のご利益があるところから別名「金銭松」ともいわれています。

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▶昭和天皇お手植えの松。

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▶左近の桜。

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▶拝殿でしょうか?

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▶こちらが拝殿でしょうか?

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▶ご本殿。

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▶ご社殿にはサッカーやバレーボールの日本代表チームやJリーグに所属する選手などから奉納されたボールなどが見られます。

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▶社務所前にも奉納されたボールが展示されていました。

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▶地主社。精大明神は、平安末期に蹴鞠の宗家飛鳥井家の邸内社として祀られていましたが、当神宮創建後に地主社となり、左・右御前の諸神様を合祀して現在に至るまで崇敬されています。

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▶地主社にもボールが奉納されていました。

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▶蹴鞠の碑。石碑中の鞠は「撫で鞠」と呼ばれます。球運を授かりたい場合、精大明神を参拝して「撫で鞠」を1回撫でるといいそうです。

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▶鞠庭。蹴鞠は日本の伝統的球技。7間半(12.7メートル)四方の鞠庭(コート)で、8人の競技者が鹿の皮で作った球を落さぬよう蹴りあう古式豊かな行事。御所の伝統芸能として伝えられ、現在、京都蹴鞠保存会により継承されている。

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▶御祓所。

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▶武道の神 伴緒社。

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▶伴緒社の前の御神木。

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▶潜龍社。この潜龍社は、昭和32年11月23日の当神宮お火焚祭斎行中に火炎の中に出現せられたのをもって、地元有志相寄って、御社を建立しこれに祀ったに始まります。

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▶潜龍社手前にある潜龍井。この御祭神の鎮まり坐す潜龍井から湧き出ずる水を飲めば、家系にまつわる諸々の悪縁を断ち、盗難災難除、病気平癒、事業隆昌に霊験あらたかな神として崇敬も篤く崇められて来ました。

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▶白峯神宮御朱印。


●幸神社(京都市上京区寺町今出川上る西入る幸神町303)
幸神社は、「さいのかみのやしろ」と読みます。この幸神社は、日本で最初の縁結びの神社であるということです。その起源は遠く神代に始まり、天武天皇の白鳳元年御再興、桓武天皇延暦十三年平安京の鬼門除守護神として御造営あらせられるとあり、都ができると、平安京の鬼門の東北の神を担い、同時に奈良の都以降、都の北東に『さいのかみ』を奉るという風習があると述べられている。
幸神社は猿田彦大神と天鈿女命を祀ります。猿田彦大神は日本神話の天孫降臨(天上界の天津神が地上に降臨したという伝承)の際、その道案内を果たした国津神(地上界の神)で、猿田彦神をまつる総本山は三重県鈴鹿市の椿大神社です。椿大神社もだいじんじゃではなく、おおかみやしろと読みます。一般には、道の神や交通安全の益がある神様として知られています。ここでは相殿の神である天鈿女神(あめのうずめのかみ)と結ばれたお話から縁結びとなったと言われています。称から由来して、幸を運ぶ御利益が高い社として人気があり、社殿には所狭しと多くの絵馬類が吊るされています。
そして境内に祀られる『御石さん(おせきさん)』と呼ばれる陽石は、触ると祟りを受けるが丁重に拝むと良縁に恵まれるといわれています。また『蘇我物語』には、この神社で誓った男女の縁は、永遠に朽ちることがないとも歌われています。 周辺地域は、平安京以前は出雲氏一族が本拠地としていたことから、主祭神の猿田彦大神は出雲路の道祖神でもありました。歌舞伎踊りの創始者として有名な出雲の「おくに」は,出雲路辺りの地で生まれ、一時期、巫女として使えていたといいます。
そして、幸神社には、この猿田彦大神の御神石と呼ばれる祭石が、狭い境内の端に安置されています。社殿などは猥雑活気な近世の風情を反映した造りとなっているのですが、この御神石のあるエリアだけは、非常に素朴な祀りのかたちとなっています。

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▶今出川通から寺町通を上がったところにある石標。

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▶鳥居の端に『出雲路 幸神社』と記された石碑があります。

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▶一間社流造のご本殿は覆屋で見えない。

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▶おびただしい数の絵馬がかかっています。恋の祈願や縁結びの祈願が多い。なぜこの場所に掛けられているのでしょうか?こういうのは初めてです。

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▶右から三天社。稲荷社。竃神社。天満宮。淡嶋社。春日社。厳島神社。稲荷神社。孔雀宮。

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▶石神さんと疫神社。結界の中に、この石神が、おそらく狂言「石神」に登場する石神ではないかと考えられている。この狂言は夫と別れるのを石神に決めてもらうため、石を持ち上げられるかどうかをつづるもの。境内では石神は安置され、この石に触れると祟りがあると伝えられていて厳重に祀られています。

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晴明神社(H20.6.27)

●晴明神社(京都市上京区晴明町806)
寛弘4年(1007年)に一条天皇の勅令により創建された平安時代の陰陽師・安倍晴明を祀る神社です。一条戻橋のたもと(北西)にあった安倍晴明の屋敷跡に鎮座。
平安時代の陰陽師・安倍晴明は近年、荒俣宏氏の『帝都物語』や夢枕漠氏の『陰陽師』(岡野玲子氏によりコミック化も)などが火付け役になって、にわかにクローズアップされています。安倍晴明は今やブームの人。安倍晴明公は孝元帝の皇子大彦命の御後胤で幼い頃から非常に賢明な方で多くの道に秀でておられました。特に天文暦学の道を深く極め、神道を思いのままに操る霊術を身につけられておられてました。成人になられた後には天文陰陽博士として活躍し、朱雀帝から村上、冷泉、円融、花山、一条、の六代の天皇の側近として仕えられ、数々の功績をたてられます。そして、村上帝に仕えられておられた時には進んで唐へ渡り、はるか城刑山にて伯道仙人の神伝を受け継がれます。帰国して後、これを元に日本独特の陰陽道を確立。朝廷の政治、日本人のさまざまな生活の規範を決められました。今日、私達の日常生活の基準となる年中行事や、暦術、占法は皆この時に創られました。
平安京随一の陰陽師として知られた安倍晴明ですが、その割には生涯官位は低く、それを惜しみ、晴明の功績をたたえるために造営されたのがこの神社でした。記録によるとその社域は、東は堀川、西は黒門、北は元誓願寺、南は中立売に広がっていたといいます。後に秀吉の都造り政策や度重なる兵火などで縮小されてしまったが、氏子たちが中心となり、各式年祭毎に社殿が整備改修されました。現在の本殿は昭和3年の御大典記念事業として新築されたものです。境内や門前には魔除けの印である星の神紋「晴明桔梗」が掲げられ、平成7年に架け替えた際の橋の親柱を使って、小さな一条戻り橋も復元されました。晴明公についての言い伝えを絵と文章で分かりやすく説明する顕彰板などがあります。

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▶一体どの看板が正しいのでしょうか?

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▶鳥居の社額にも御神紋である五芒星が書かれています。

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▶旧 一条戻橋。平成7年まで実際に使われていた親柱でミニチュアを再現されています。
一条戻橋の名の由来は、918年(延喜18)、天台の修験行者 浄蔵が大峯山に修行で通っていたころ、漢学者である父 三善清行が死に、親の死に目に会えなかった息子の浄蔵が駆けつけ、この橋で棺と対面。浄蔵は父の棺に向かい持念すると、清行はたちまち蘇生し、ともに家に戻ったのでそれで戻橋という名前が付いたとされています。源氏物語にも「ゆくはかへるの橋」と書かれ、和泉式部も歌に詠んでいます。平家物語では、渡辺綱が鬼女の腕を切り落とした伝説などこの橋には様々なエピソードが残っている。また、千利休が豊臣秀吉の怒りをかうきっかけとなった大徳寺金毛閣の利休像の首、さらに切腹した利休自身の首がみせしめにさらされたのもこの橋でした。
現在の一条戻橋は、晴明神社から100メートルくらい南にいったところの堀川に架かっています。今は水がなく、コンクリートの川底が見えているが、その昔はかなり水かさもある急流だったようです。なお、戻橋の位置は、平安京の頃から現在まで変わっていないことが確認されています。
その名から、戻橋の縁起を担いで、旅に出る人はこの橋を渡って出かけました。兵士が戦地に赴く際も無事に帰ってこられるようにとこの橋を渡って出征したという哀しい歴史もこの橋には刻まれています。逆に、京都の嫁入り前の娘はこの橋に近づかないそうです。
「戻橋に行ってから晴明神社に行くのはいいけれど、その逆をしてはいけない」有名な話なのだそうですが、私は知りませんでした。

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▶千利休屋敷趾えお記した石碑。数年前に、江戸時代の茶書から、当神社の境内に当たる「葭屋町通元誓願寺下ル町」に利休屋敷があったことが確認されたため、利休の遺徳をたたえ茶道武者小路千家 家元が石碑を奉納されました。境内の「晴明井」の水は利休が使ったとされています。

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▶手水舎。手水鉢が小さくてかわいいです。

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▶晴明井。山城名泉の一つで病気平癒の水としてご利益がある水が湧き出ています。立春になると神職が井戸の上部を回転させ、取水口がその年々の恵方を指す仕組みになっております。千利休が茶の湯に使ったとの言い伝えもあります。

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▶御神木の楠。

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▶晴明公についての言い伝えが絵と文章でわかりやすく説明されています。その下には桔梗が植わっており7月頃~9月頃まで、可憐な花をいくつも咲かせます。因みに桔梗の花言葉は「誠実の愛」です。

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▶厄除桃。陰陽道では桃は魔除厄除の果物とされているようです。

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▶拝殿。五芒星が随所にあしらわれています。

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▶拝殿からご本殿。

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▶末社 齋稲荷社。倉稲魂命(うがのみたまのみこと)他、二柱を祀ります。晴明公は稲荷神の生まれ変わりとの言い伝えから当祀られるようになったとのことです。

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▶末社 齋稲荷社ご本殿。

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▶ご本殿から堀川通。

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▶授与所に有名人の絵馬が数多く奉納されていました。

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▶晴明神社御朱印。

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2008年6月26日 (木)

熱田神宮(H20.6.22)

●熱田神宮(名古屋市熱田区神宮1-1-1)
熱田神宮の創始は、三種の神器の一つ草薙神剣(くさなぎのみつるぎ)の御鎮座に始まります。第12代景行天皇の時代、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東国平定の帰路に尾張へ滞在した際に、尾張国造乎止与命(おとよのみこと)の娘宮簀媛命(みやすひめのみこと)と結婚した。草薙剣を妃の手許へ留め置いた。日本武尊が能褒野で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定め、剣を奉斉鎮守したのが始まりと言われる。そのため、三種の神器のうち草薙剣は熱田に常に置かれるようになり、伊勢神宮に次ぐ権威のある神社として栄えることとなりました。
以来伊勢の神宮につぐ格別に尊いお宮として篤い崇敬をあつめ、延喜式名神大社・勅祭社に列せられ国家鎮護の神宮として特別のお取り扱いを受ける一方、「熱田さま」「宮」と呼ばれ親しまれています。
境内外には本宮・別宮外43社が祀られ、主な祭典・神事だけでも年間70余度、昔ながらの尊い手振りのまま今日に伝えられています。
昭和20年の終戦直前、神体である草薙剣を守るために飛騨一宮水無神社への一時的な遷座が計画されたが、8月15日の終戦により一時中止された。しかし、今度は上陸したアメリカ軍に神体が奪われる虞があるとして、8月21日、陸軍の協力を得て計画通り神体が水無神社に遷された。同年9月19日に熱田神宮に戻されたが、そのときにはすでに陸軍は解散していたため、神職が鉄道で移動した。社殿は伊勢神宮の式年遷宮の際の古用材を譲り受け、昭和30年(1955年)10月に再建されました。

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▶正門。

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▶西門。

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▶うっそうとした長い参道。

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▶西楽所の鳥居。

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▶凄まじく雨が激しくなってきました。

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▶拝殿。明治26年までご社殿は尾張造りでしたが、三種の神器奉斎の社であることから、伊勢神宮とほぼ同様の社殿配置・規模の神明造りに造りかえられました。

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▶拝殿からご本殿。

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▶この激しい雨の中、結婚式が執り行われていました。花嫁さんは大変かも知れませんが、雨の結婚式もいいものですね。

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▶雨の中の巫女さんの後ろ姿も味わい深いものがあります。

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▶祈祷殿(車祓い殿)。

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▶大幸田神社。

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▶六末社。南から、日長神社(日長命)、素盞嗚神社(素盞嗚尊)、水向神社(弟橘媛命)、今彦神社(建稻種命)、姉子神社(宮簀媛命)、乙子神社(弟彦連)。

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▶内天神社。社がなく、ご神木をお祀りしています。

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▶大楠。弘法大師のお手植えと伝えられ、境内には名古屋市内で最も古く大きな木(楠)もあり、同じく市内で3番目に大きな木(やはり楠)が清水社前に、そして4番目がこの「大楠」です。手水舎北側にあり、熱田神宮で最も有名な大木です。大楠は千年になります。

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▶西八百萬神社。

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▶菅原社(天神さま)。

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▶二十五丁橋。、板石が25枚並んでいるところからこの名がついており、名古屋では最古の石橋といわれています。昔ながらの優雅な姿は誠に見事です。西行法師が、これほど涼しい宮を誰が熱田と名をつけた、というユーモラスな唄があります。

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▶楠御前社。縁結びの神として世に知られる伊弉諾尊(いざなぎのみこと)伊弉册尊(いざなみのみこと)の二柱をお祀りしています。尚、このお社には社殿がなく、垣をめぐらした中に社名の示すとおり、楠の神木が祀られています。

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▶楠御前社は、「子安の神」又は「お楠さま」と呼ばれ、種々の病気を治し、殊に安産の神としての信仰が厚く、小鳥居に干支や氏名を書いて奉献すると願い事が成就するといわれています。

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▶左から曽志茂利社、八子社、南新宮社。境内摂社である南新宮社は、熱田神宮唯一の朱塗りの社殿である。

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▶孫若御子神社。

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▶日割御子神社社殿。

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▶下知我麻神社。

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▶下知我麻神社拝殿。

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▶下知我麻神社拝殿からご本殿。

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▶別宮八剣宮拝殿。

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▶事代主社。

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▶大国主社。

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▶境外摂社松后社。 

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▶松后社ご社殿。

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▶松后社内の社。祭神不明。

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▶熱田神宮、下知我麻神社・別宮八剣宮御朱印。


●初えびす多賀殿・宝亀山 蔵福寺(名古屋市熱田区神宮2丁目11-12)
熱田神宮の参拝が終わって、次の目的地、正門をでたところのひつまぶしの有名店蓬莱軒に向かいます。

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▶開店30分以上前なのに、もうこんなに人がならんでいました。私も並びました。すると目の前に神社か寺院なのかもわからないような建物を発見。

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▶入口に初えびす多賀殿と書かれていましたが、神社かお寺かも不明です。何の案内板もありません。あとで調べると浄土宗西山禅林寺派の宝亀山 蔵福寺というお寺のようですが、そういった名前の表示はまったくありませんでした。

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▶ご社殿が二つあり、、どちらも歴史ある感じはします。

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▶お杓子が奉納されていますが、どういった意味があるのかわかりません。お杓子祈祷という表示はありましたが、

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▶御朱印見本。

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真清田神社(H20.6.22)

●真清田神社(愛知県一宮市真清田1-2-1)
延喜式神名帳に「眞墨田神社」として所載され、名神大社に列し、大正3年に国幣中社に列格した名社です。古くより尾張国一の宮とされ、所在地の愛知県一宮市は、この真清田神社の尾張国一宮からきています。真清田(ますみだ)というきれいな社号は、当地が木曽川の清い水によって形成された水田地帯であったためと言われています。
社伝は神武天皇33年の創建とし、祭神は尾張氏の祖とされる天火明命。祭神の御子・天香山命が、葛城の高尾張邑から当地へ移って開拓するにあたり、父・天火明命を祀ったとしています。ただ、諸文献によると、江戸時代までは大己貴命あるいは國常之尊を祭神としており、正式に天火明命を祀ったのは明治以降のことです。また、祭神が8頭8尾の大龍に乗ってきたという伝承があることから、水神としても信仰され、尾張藩主はたびたび晴雨祈願をしていました。
中世以降は、尾張国一宮として朝野の崇敬をあつめ、鎌倉時代には順徳天皇が多数の能楽面(重文)を奉納。神領は、嘉禎元年(1235)に記された久我文書に、「水田129町9反300歩」と所載されています。江戸時代は、尾張藩主のあつい庇護を受けます。名古屋城築城後、初代尾張藩藩主・徳川義直1631年(寛永8年)に真清田神社の社殿の大修復を行なっています。また、尾張藩4代藩主の徳川吉通は1702年(元禄15年)に本殿を修造し、さらに1707年(宝永4年)には楼門を再建するなどしています。松平忠吉は神領200石を寄進、寛永4年(1627)には徳川義直から神領105石を寄進され、旧来からの神領とあわせて336石6升となった。寛永16年(1639)義直からあらためて黒印状を寄せられ、これより歴代の領主は、先規によって朱印状を寄せるにいたりました。また、1747年(延享4年)には尾張藩8代・徳川宗勝が本殿を修造、さらに1792年(寛政4年)にも尾張藩9代・徳川宗睦が同じく本殿修造を重ねており、真清田神社の尾張国一の宮としての崇敬が伺えます。
その後、1932年(昭和7年)社殿修理や境内の整備が行なわれたものの、残念ながら名古屋城同様に、大東亜戦争の米軍空襲によって一部を除き、ほとんど焼失しました。
境内社の服織神社は、祭神の母神であり、織物神とされる萬幡豊秋津師比賣命を祭祀。東海地区最大級の七夕祭り「おりもの感謝祭一宮七夕まつり」では、特産の毛織物が奉納されます。

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▶楼門前の太鼓橋。

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▶昭和36年再建の楼門。

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▶手水舎。

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▶拝殿。

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▶拝殿左から。

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▶奥がご本殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶神馬。

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▶夫婦楠。

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▶幸運楠。

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▶伝教杉。

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▶君が代に詠まれている「細石」

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▶服織神社拝殿。

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▶服織神社拝殿からご本殿。

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▶愛鷹社・犬飼社・天神社。

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▶鶏が放し飼いにされています。

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▶この階段を上ると

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▶須佐男社、愛宕社、秋葉社が祀られています。

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▶神池の中に島があり、八龍神社と厳島社が祀られています。

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▶神池の手前側に社がありますが、祭神は不明。

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▶稲荷神社。

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▶三八稲荷神社。

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▶三八稲荷神社の右となりの稲荷社。

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▶神水舎。

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▶ご神水。非常に美味しかったです。

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▶神水舎内の社、ご祭神は彌都波能賣大神齋様。

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▶子宝祈願らしい・・です。

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▶おもかる石。


●神明社(愛知県一宮市大宮1丁目付近)
尾張一宮駅から真清田神社に向かう途中に神明社という神社を発見しました。真清田神社に関係があるのかどうかも全く解りません。また、ご祭神や由緒など何の案内板もないので全く解りませんでした。ご挨拶だけさせて頂きました。

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2008年6月24日 (火)

世木神社(H20.6.21)

●世木神社(三重県伊勢市吹上1丁目2-6)
世木神社の西側に他の神社にはない、お祓所があります。天皇の勅使や神宮祭主が伊勢神宮に参拝されるとき、神宮司庁がこの場所に幄屋(あくのや、参加者のための仮屋)を建て、お祓いの儀式が行われました。古来この地は、宮川の支流がたくさん流れており、その水流は豊かで五十鈴川のようにきれいな流れでありました。そのため伊勢神宮を参拝する前にこの清き流れで身の穢れをお祓いし、神宮のご神意域へ入るという習いができたようです。そのお祓いをする場所が世木神社のお祓所なのです。
「世木」は、水をせき止める堰に由来する名。上古以来、宮川の分流豊川をせきとめて用水とする堰があったので、この地が「世木」と呼ばれました。主祭神の天牟羅雲命は、この地の豪族で代々外宮の祢宜をつとめる渡会氏の遠祖とされる神ですが、その度会一族の一つがこの世木村に住み世木氏を名乗って本社を氏神とし、又治水を祈ってきました。創始の年代は不詳ですが、この世木氏の氏神であった光明寺(現岩淵三丁目)に残る古文書は、鎌倉時代のこの地の盛行を語っています。しかし、十五世紀中葉、この世木氏が他の土地に移住していくと、社は残った村人達の氏神となりました。明治四十一年、周辺の藤里や岩淵にあった渡会氏関係の社はここに合祀され、世木坐渡会氏神社となり今に至りました。

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▶伊勢市駅を降りるとすぐに見えます。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶三吉稲荷神社。

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猿田彦神社(H20.6.21)

●猿田彦神社(三重県伊勢市宇治浦田2-1-10)
猿田彦大神は孫降臨の折に伊勢の地で天孫瓊々杵命(ににぎのみこと)を御案内された後、伊勢の地を中心に国土の開拓・経営に尽くされた地主神。また大神の御裔の大田命は、皇女倭姫命が神宮御鎮座の地を求めて巡歴されたときに五十鈴の川上の地をたてまつり、伊勢の神宮が創建されたと伝えられます。猿田彦大神は「ものごとの最初に御出現になり万事最も善い方へおみちびきになる大神」とあります。すべてのことに先駆け、人々を善い方へ導き、世の中の行方を開く「みちひらき」の神として信仰を集めています。

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▶子宝家。池畔には神代の昔から子々孫々継承し続けて絶えない宇治土公家の産霊神が奉祀されています。

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▶なにか謂れのありそうな岩です。

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▶方位石。拝殿正面の中央に昔の神殿跡を印し、方角を刻んだ八角の石柱があります。八角は方位を意味し、方位除の御神徳を仰ぐ猿田彦神社にちなんだものです。本殿の堅魚木・欄干をはじめ、佐瑠女神社神殿・大鳥居・手水舎の柱などは、すべて八角となっています。

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▶拝殿。

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▶突然、雨が激しくなりました。

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▶佐瑠女神社。天照大御神が天岩窟(あめのいわや)にこもられたときに神楽をされ、大御神再び現れて平和な世を迎えられたと伝えられます。天孫降臨の際は猿田彦大 神と最初に対面、大神が御啓行の後は詔(みことのり)により、ともに伊勢に来られ、功により、媛女君(さるめのきみ)の称号を受けられました。俳優 (わざおぎ)、神楽、技芸、鎮魂の祖神(おやがみ)と仰がれます。

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▶ご本殿も八角形。

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▶猿田彦神社御朱印。

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皇大神宮-伊勢神宮内宮(H20.6.21)

●皇大神宮(三重県伊勢市五十鈴川上)
皇大神宮は一般には内宮と呼ばれ、日本国民の大御親神(おおみおやがみ)と崇められ皇室の御祖神である天照大御神をお祀りしています。第11代垂仁天皇の26年(約2000年前)に伊勢の地に御鎮座されました。ご祭神は、天照坐皇大御神(あまてらしますすめおおみかみ)。このご神名はお祭りに際して神前で畏まって称え申し上げる最高のご名称で常には皇大御神や天照大御神と言われています。

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▶宇治橋。五十鈴川にかかっていて、俗界と聖界との掛け橋といわれ檜で創られています。長さは101.8mで、向こう側にも鳥居があります。この両たもとの鳥居は旧御正殿の棟持柱を利用している。

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▶五十鈴川上流。

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▶五十鈴川下流。

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▶玉砂利の参道。

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▶火除橋と一の鳥居。

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▶五十鈴川御手洗場。参拝する前に心身を清める場所です。かつては、参拝の前に身を清めたところですが、現在でも清流の水で口をすすぎ、手を洗い清める習慣は残っています。

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▶瀧祭神。社殿はありませんが、御垣と御門があり、石畳の上に石神がお祀りしてあります。

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▶メインの参道ではなく、五十鈴川沿いの参道を行きます。

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▶風日祈宮橋。宇治橋を小さくした様な橋です。

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▶風日祈宮橋から五十鈴川。橋の上から眺める風景はまた格別です。

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▶風日祈宮。外宮の風宮と同じ天候の順調や豊作を祈る風の神を祀り、元寇に神風を吹かせたのはこの風日祈宮といわれています。

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▶さらに五十鈴川沿いの参道を行きます。

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▶正宮までもうすぐです。

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▶御正宮の前には30余段の石段があります。この石段を上ると天照大神が祀られている正宮がありますが、撮影が許されるのはこの石段の下までです。
正宮は唯一神明造、正宮を中心にして、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣の4重の垣根がめぐらされています。
画像に写っているのは、一番外の板垣です。参拝者が立ち入ることが出来るのはこの鳥居をくぐった、外玉垣の南側にある「外玉垣南御門」の手前まで。

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▶正宮の敷地は東西2箇所あり、現在の正宮の西隣にこの新御敷地があります。次回は平成25年に第62回の式年遷宮が行われます。

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▶御稲御倉。御稲御倉神をお祀りしており、ここには、神宮神田より、収穫した抜穂の御稲が納められています。

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▶外幣殿。古神宝類が納められています。

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▶別宮 荒祭宮。天照大御神の荒御魂を祀っている第一の別宮です。荒御魂というのは、事にあたって動きを示す荒く猛々しい時の御魂をいいます。

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▶鶏が放し飼いにされています。

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▶非常にカラフルです。

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▶大山祇神社・子安神社の前の鳥居。

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▶手水鉢。木華開耶姫様をお祀りしているだけあって、かわいらしく花の形でした。

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▶奥から大山祇神社、子安神社。

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▶子安神社。お稲荷さんのように安産祈願・子宝祈願に鳥居を奉納するのが習慣なのでしょうか?

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▶最後に、御饌殿で商売繁盛のご祈祷をして頂きました。

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▶内宮御朱印。前に参拝した際に頂いたもので日付が違います。

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2008年6月23日 (月)

月讀宮(H20.6.21)

●皇大神宮別宮 月讀宮(三重県伊勢市中村町742-1)
月讀宮にお祀りの月讀尊は天照大御神の弟神であります。外宮の別宮月夜見宮の御祭神と御同神であります。
最高神天照大神の弟神の月讀尊が祭神であることから、内宮別宮としては天照大神の魂を祭神とする荒祭宮(あらまつりのみや)に次ぐ順位で、内宮宮域外の別宮としては最高位の別宮である。
荒御霊とは、神様の御魂のおだやかなお姿を「和魂(にぎみたま)」というのに対し、時に臨んで格別に顕著な御神威を顕す御魂の働きを「荒御魂」と称えて云います。
月讀尊の御事については、日本書記の上巻に、伊邪那岐命・伊邪那美命二柱の御親神が、天照大御神をお生みになられ、次に月讀尊をお生みになられ夜之食国(よるのおすくに)をお治めになるようにと、ご委任になられたと記されております。

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▶正門。

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▶東門。

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▶伊勢神宮のお社は、どこも立派な杜を有しており、月讀宮も参道が長くつづきます。

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▶祓所。

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▶月讀宮。月讀宮-月讀荒御魂宮-伊佐奈岐宮-伊佐奈弥宮の順の正しい参拝とされていますが、あとで気付きました。全く逆の順番で参拝してしまいました。

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▶月讀荒御魂宮。

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▶伊佐奈弥宮。

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▶伊佐奈岐宮。

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▶葭原神社。

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▶月讀宮御朱印。

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倭姫宮(H20.6.21)

●皇大神宮別宮 倭姫宮(三重県伊勢市楠部町5)
倭姫命(第11代垂仁天皇皇女)は、「御杖代(みつえしろ)」として皇大御神(すめおおみかみ)に奉仕され、皇大御神を戴いて大和国をお発ちになり、伊賀・近江・美濃等の諸国を経て伊勢の国に入られて、ご神慮によって現在の地に万代不易の皇大神宮をご創建されました。「御杖代」とは皇大御神の御杖となって、ご神慮を体して仕えられるお方の意です。天照坐皇大御神のご遷幸に供奉して、皇大神宮を五十鈴の川上にご創建申し上げたご功績のあった倭姫命をお祭りする皇大神宮の別宮です。大きなご事績をお残しになり、またこの伊勢の草わけの姫神であったにもかかわらず、大正時代までは、倭姫命のおかくれになった御陵墓の伝説を残すだけで、倭姫命をお祭りする宮社がなく、このことを大変残念に思い、神宮ならびに地元の宇治山田市(今の伊勢市)の人々の宮社創立の熱望が実を結び、大正12年11月5日ご鎮座がおごそかに行われました。

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▶月讀宮から倭姫宮の間の御幸道路に巨大な鳥居があります。

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▶正門。

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▶東門。

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▶表参道の鳥居をくぐると長い参道が続きます。鬱蒼と茂った立派な森が続き、苔の匂いがします。

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▶参道の突き当たりのこの階段を昇るとご社殿です。

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▶ご社殿。

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▶倭姫宮御朱印。

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豊受大神宮-伊勢神宮外宮(H20.6.21)

●豊受大神宮(三重県伊勢市豊川町279)
豊受大神宮は外宮と呼ばれ豊受大御神をお祀りしています。豊受大御神はお米をはじめ衣食住の恵みをお与えくださる産業の守護神です。天照大御神のおめしあがりになる大御饌(おおみけ…食物)の守護神であり、農業をはじめ諸産業をつかさどる神とされています。御垣内の御饌殿では、毎日朝夕の二度、天照大御神に神饌をたてまつるお祭りがご鎮座以来一日も絶えることなく行われています。第21代雄略天皇の22年(西暦五世紀)に天照大御神の御神慮によって丹波の国(今の京都府北部)より、この地にお迎えしたと言い伝えられています。

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▶表参道側火除橋。防火の為に造った堀川にかけられている橋で、この橋を渡ると神域に入ります。外宮ではすべて左側通行になっており、手水舎もその関係で左側に配置されています。

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▶北御門口(裏参道)の火除橋。明治以前はこちらが正面口だったとのことですが、、伊勢市駅ができてから、現在では裏参道になっています。

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▶勾玉池は、明治22年9月に造られ、勾玉の形をしています。北側の池畔には舞楽の舞台が常設されていて、神宮観月会が仲秋の名月の宵に行われます。6月頃は花菖蒲が美しく湖畔を彩ります。

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▶参道を行きます。非常に澄んだ気に満ちています。

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▶正宮が右手に見えます。

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▶正殿を中心にして、瑞垣・内玉垣・外玉垣・板垣の4重の垣がめぐらされています。画像に写っているのは一番外の板垣です。掘立柱に萱の屋根が特徴の神宮の建築様式は、唯一神明造と呼ばれ、弥生時代にまで遡る高床式穀倉の姿を今に伝えています。参拝者が立ち入ることが出来るのは、鳥居のむこうにある外玉垣南御門の前までです。

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▶第62回式年遷宮御敷地。

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▶多賀宮遥拝所。注連縄を張った白石敷きの一画がこの場所です。正宮・三つ石の手前に位置します。

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▶三つ石(川原祓所)。昔の祓所で、今も遷宮の川原大祓はこの場所で行われています。宮川の支流がここを流れていたから川原祓所(かわらのはらいしょ)と呼ばれていました。

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▶別宮 多賀宮。外宮第一の別宮です。高い所におまつりするから昔は、高宮とも書かれていました。

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▶別宮 土宮。

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▶別宮 風宮。元寇時に神風を吹かしたと伝えられます。

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▶下御井神社。

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▶九丈殿・五丈殿。

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▶外宮御朱印。前に参拝した際に頂いたもので日付が違います。

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月夜見宮(H20.6.21)

●豊受大神宮別宮 月夜見宮(三重県伊勢市宮後1丁目)
豊受大神宮(外宮)の別宮のひとつがこの月夜見宮。月夜見尊(つきよみのみこと)と、その荒御魂(あらみたま)の2神を祀っているところです。月夜見尊の御事については、『日本書紀』(元正天皇養老4年〈720〉奏進)の上巻に、伊邪那岐命と伊邪那美命2柱の御親神が、天照大御神をお生みになり、次に月讀尊をお生みになられ、月讀尊は夜之食国(よるのおすくに)を治めるようにとご委任されたと記されております。御祭神の月夜見尊は、天照大御神の弟神で、皇大神宮別宮の月讀宮におまつりされている月讀尊と御同神でありますが、当宮では、月夜見尊の文字が用いられております。

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▶外宮の北御門から真っすぐ月夜見宮に至る宮後町の道は、昔並木があり、その道の真中は歩かない、また穢れに触れてしまった者はその道を避けて通らなかったという習慣がありました。町の古老の伝える歌に
 宮柱建て初めしより月讀の神の生きかふ中のふる道
 月讀の宮仕へとて夙(つと)に起き通ふ神路を清めざらめや
とあり、この道は神様の通う道であると信じられ大切にされていたようです。

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▶現在もこの道は地元の人々に「神路通り」と呼ばれ、親しまれています。

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▶外宮から伊勢市駅方面に向かう「神路通り」を歩き、突き当たりに月夜見宮が見えます。

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▶月夜見宮ご社殿。

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▶落雷にあって黒焦げになった樹の根元に石の神様が祀ってあります。

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▶朝早く、しかも小雨がぱらついているので境内は原始的な静けさが漂います。

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▶高河原神社。

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椿大神社(H20.6.20)

●椿大神社(三重県鈴鹿市山本町字御旅1871)
椿大神社は「だいじんじゃ」ではなく「おおかみやしろ」と読みます。三重県鈴鹿市に鎮座される伊勢国一の宮であり、猿田彦大神をお祀りする総本宮です。
伊勢平野を見おろす鈴鹿山系の中央部に位置する高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽の麓に鎮座し、鈴鹿側支流の御幣川が形成する扇状地の根元に鎮座し、鬱蒼たる杉木立のなかに鎮座している。
昭和初期に内務省神社局によって全国2000社のサルダヒコ神を祀る総本宮であることが再確認され、「地祇猿田彦大本宮」と尊称されています。「国幣大社」列格の手続きが開始され国幣大社の内示を受けるが大東亜戦争の為に列格は中断。昭和10年3月に警視庁は当社分霊を奉斎して国民守護・導きの祖神とし、現在の警視庁も交通安全の神として引き継いでいます。 
神代より高山入道ヶ嶽・短山椿ヶ嶽山中で営まれていた猿田彦祭祀であったが、垂仁天皇の皇女である倭姫命の神託によって猿田彦神陵前方の「御船磐座(みふねのいわくら)」に伊勢開拓神であるサルダヒコ神を主神としてニニギ尊・タクハタチチヒメ命を相殿に祀った社殿を造営したことにはじまるという。サルダヒコ神の神裔であり神世から祭祀してきた山本神主家は当社を拠点に伊勢地方を掌握していたが、垂仁天皇の代(垂仁天皇27年)に伊勢の皇大神宮鎮座にあたって、奉仕したのがサルダヒコ神の末裔とされる大田命(伊勢の猿田彦神社)であり、以来伊勢神宮と密接な関係にあった。
当社創建以来、山本神主家は代々「猿田彦命」を襲名していたが、崇神天皇のころに神名使用を禁じられたために「行満」(修験神道)と称し山本家の祖先神となったという。仁徳天皇の御霊夢によって「椿」に名を社名とし、光孝天皇仁和年間に「伊勢一の宮」、そして醍醐天皇期に「延喜式内小社」に列格。中世期は一の宮として発展し、また仏教の影響も受け、修験もさかんとなる。
風水師、李家幽竹さんの著書「新版 絶対、運が良くなる旅行風水」において、日本国内で最強レベルのパワースポットと紹介されております。
経営の神様とも称えられる、松下電器産業株式会社の創始者の松下幸之助氏との御神縁も深く、境内の日本庭園と共に寄進された茶室「鈴松庵」も有名です。

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▶手水舎とご神木。

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▶カエルでした。

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▶庚龍神社。

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▶獅子堂(交通安全祈祷殿)。聖武天皇敕願奉納の獅子頭に由来し、日本最古の獅子舞を伝えている。1300年前に伝えられた獅子舞ということです。

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▶参道をまっすぐ行くとご本殿ですが、右に進みます。

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▶地蔵堂(椿延命地蔵尊と有縁無縁供養塔)。

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▶行満堂神霊殿・鈴鹿七福神霊場。

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▶松下幸之助社と思っていましたが、違いました。祭神は不明です。

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▶松下幸之助氏が寄進された茶室「鈴松庵」。

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▶君が代に歌われた「さざれ石」。

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▶参道に戻ります。昼の2時とは思えないです。

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▶御船磐倉。ニニギ尊らが御船でサルダヒコ神に導かれ、この場所にご到着したという。

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▶断りの鳥居。江戸期の神戸(鈴鹿)城主が境内の御神木を伐採して城を築き、完成後一夜で炎上。神威をおそれて奉納したという。

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▶大黒天様と恵比寿神様。

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▶高山土公神御陵。境内にある前方後円墳。

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▶別宮椿岸神社。猿田彦大神の妻神・天之鈿女命が主祭神として祀られており、全国の天之鈿女命の総本宮でもあります。 ご事績により芸道の祖神として信仰され、また鎮魂の神、夫婦円満の神、縁結びの神として崇敬されています。

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▶椿岸神社は、「つばきぎしじんじゃ」と読みます。こちらは「かみやしろ」とは言わないんですね。

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▶芸能関係の方の奉納も多くありました。

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▶椿岸神社拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶拝殿前に置かれていた「神招福臼」。3回搗いてお祈りするらしい。

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▶李家幽竹さんの記事も置かれていました。

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▶上の李家さんの雑誌の記事で椿恋みくじは絶対引いてみて。とありましたので年甲斐もなく引いてみました。かわいいおみくじです。

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▶開けると巫女さんのチャームが入っていました。内容も普通のおみくじと違って具体的でした。女の子向けなんでしょうね。

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▶いきなり激しい雨が降ってきました。

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▶李家先生曰く、拝殿右のこのプチ滝を撮影すると恋愛運が訪れるらしい。携帯の待受画面にするといいらしい。ほんまかいな。

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▶ということで、プチ滝の写真をいくつか。

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▶このプチ滝のお水を頂きましたが、本当に美味しかったです。

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▶扇塚。扇は、古来神を招ぎ奉るものとして芸道を志す方の心のよりどころとされ、古くなった扇を感謝の心を込めて、この塚に納めていただきます。

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▶招福の玉。

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▶縣主神社。

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▶椿護国神社。

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▶茅の輪。夏越の大祓の準備がされていました。茅と葦で作った大きな輪、茅の輪はそれをくぐることにより、疫病や罪・穢れが祓われるといわれています。「夏越の大祓」は、正月から6月までの半年間の罪穢を祓い、梅雨の時期に多い流行病や疫病にかからず、暑い夏を健康で暮らせるようにと古くより変わらずに伝えられてきている神事です。

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▶拝殿。

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▶拝殿を左から。

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▶拝殿から茅の輪。

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▶拝殿からご本殿。

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▶金龍明神の滝。先ほどの椿岸神社のプチ滝の川上にあります。神社後方の神山入道ヶ嶽を源とした大明神川からのこの金龍明神の滝は、お祓いご祈祷を受けないと入れません。この滝の水は、神水とされ、清く柔らかで昔より万病に効く薬水とされています。この滝では毎月11日にはみそぎ修法会が行われています。

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▶この金龍明神の滝の写真も何枚か。プチ滝よりこちらの金龍明神の滝の写真の方がありがたく感じます。

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▶椿大神社御朱印。

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2008年6月15日 (日)

難波八阪神社・敷津松之宮(大国主神社)・今宮戎神社(H20.6.14)

●難波八阪神社(大阪府大阪市浪速区元町2-9-19)
難波八坂神社ではなく難波八阪神社が正式な名前らしいです。古来、難波一帯の産土神として信仰を集め、かつては七堂伽藍、子院十二坊を有する繁栄ぶりだったが、兵火に遭い、衰退。明治維新後、神仏分離で寺は廃絶し、昭和20年の空襲で社殿も焼失しました。現在の社殿は戦後に再建されたものです。巨大な獅子頭をかたどった高さ12m、幅11m、奥行10mの絵馬殿がとくに目を引きます。毎年1月第3日曜日に行なわれる綱曳神事は、祭神の素戔鳴尊が八岐大蛇を退治し、民の困苦を除いたという故事に基づいて始められたもの。平成13年に大阪市で初めての無形民俗文化財に指定されました綱引き(綱曳)が開催されます。これは素戔鳴尊が八岐大蛇を退治した故事に由来してるそうです。7月には、「船渡御」と「獅子舞」があります。獅子舞は、この難波八阪神社では夏のイベント。戦前は4頭の獅子が200人のカルサン姿(だぶだぶズボンの南蛮服)の踊り子を連れて踊り回ったそうです。

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▶正門。

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▶東門。

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▶お祭りの準備なのでしょうか?境内にテントが張ってあって、神輿がありましたが、作業をしている人は誰もいません。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶さすが大阪っていう感じです。獅子舞に命かけてる神社だけに、こんな巨大な獅子頭を作ってしまったんでしょうね。これが昭和49年に作られた絵馬殿で大獅子殿というそうです。高さ12m幅11m奥行き10m。口の中が舞台になっていて、夏祭りや神事の際には、奉納舞などが行われているそうです。

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▶右から皇大神社、市杵島神社、三法荒神社、稲荷神社。

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▶境内摂社。祭神等はわかりませんでした。

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▶戦艦陸奥主砲抑気具記念碑。

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▶祇園の文字も見えます。

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▶ご社殿の間に対にありましたが、なんの碑かわかりません。

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▶殉国之碑。

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▶篠山神社。

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▶難波八阪神社御朱印。


●敷津松之宮(大国主神社)(大阪市浪速区敷津西1丁目2番)
正式には「敷津松之宮大国主神社」と呼ばれます。社伝によれば、神功皇后が三韓を平定されて住吉大社に凱旋報告のため、敷津浦を航海されたとき、敷津浜に荒い波がうちよせられるのを見られ、松の木を渚に三本植え、素戔鳴尊をお祀りになり航海の安全を祈られたことから「松之宮」と呼ばれたとあります。1600年以上の歴史を誇る古い神社です。1744年、今宮戎神社が「えびす様」なら「大黒様」が無いと纏まらないということで、今宮戎神社に近い敷津松之宮の中に摂社として「大国主神社」が勧請されています。
大国主神社としての歴史は、比較的新しいものであるが、商売繁盛の神として、東は今宮の戎さん、西は木津の大黒さんと親しまれ、江戸期の10日戎では「戎大黒、両社詣でて本参り」と言われていたようです。神功皇后が松の木を植え、荒れる海の安全を祈った「松之宮」と、“木津の大国さん”の「大国主神社」が相殿となっています。

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▶南側の正門には「敷津松之宮」と社額があります。

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▶東門には「大国主神社」と書かれています。

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▶南側の鳥居から入ると正面が敷津松之宮の本殿。東側から入ると正面が大国主神社の本殿ということで境内で参道がクロスしてます。同じ境内に二つの神社があって、入り口の名前が別々になってるってまるで二世帯住宅みたいです。素盞嗚尊と大国主命は親子ですし、まさに二世帯神社です。

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▶敷津松之宮拝殿。

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▶敷津松之宮拝殿からご本殿。

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▶大国主神社ご社殿。大国様は、狛犬の代わりを「ねずみ」が勤めています。

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▶ご社殿内の大国様。

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▶楠稲荷社。

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▶白龍明神社。隣の楠は明治百年記念樹とありましたが、明治は45年間だったのに、なんで百年なのか解りませんでした。

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▶手水舎。

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▶ご神岩なのでしょうか?細い注連縄が巻かれていました。もう古くて注連縄か単なるひもかは解りませんでした。

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▶木津勘助像。関西人なら誰でも知っている放送作家・新野新さんの祖父が建てたらしいですが戦時中に供出され、戦後、父嘉雄さんが再建された。新野新さんも敷津にお住いとラジオでお話しされていたような記憶があります。
木津勘助は大阪の伝説的な英雄で、豊臣秀吉に仕え、堤防工事や新田開発に尽くしました。徳川時代に木津川の開削により大阪の発展に寄与した功績とともに、寛永16年(1639年)に近畿一円が冷害にみまわれ大飢饉の様相を呈したとき、米(大阪城の備蓄米)放出を願い出ましたが聞き入れられず、私財を投げうって村人に分け与えました。それも限度がありついに「お蔵破り」を決行したことなどから今なお敬愛されています。
木津勘助に関してはこちらのルルさんのブログで詳しく書かれています。
http://salon.stage007.com/header1000011/dream/1019964/archive/17/

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▶敷津松之宮(大国主神社)御朱印。


●今宮戎神社(大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10)
大阪の商売の神様として有名な神社。聖徳太子が四天王寺を建立したときに同地西方の鎮護として祀ったのが始めと伝えられ、天照皇大神・事代主命・外三神を祭神としています。1月9・10・11日の三日間の「十日戎」には約100万人の参詣者が訪れます。そう広くないこの境内に3日間で100万人というのは想像を絶する混雑ぶりなのでしょうね。十日戎は西宮戎と堀川戎しかお参りしたことがないもので、来年は今宮戎にもお参りしたいと思います。
毎年選ばれる十日戎の福娘は全国的に有名で藤原紀香さんも今宮戎の福娘でした。この福娘に採用されるといい縁談にめぐまれたり、いい仕事につけたりするという評判を呼び、毎年相当数の応募があり、競争率80倍以上の難関なのです。福娘発表会はテレビ番組として収録され年末に放送されます。

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▶正門。

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▶正門を入ると正面にご社殿ですが、ちょっと微妙にズレています。

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▶参道?この写真の手前が正門ですが、これも正面が正門でなくちょっとズレています。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶大国社。

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▶ご本殿横から。

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▶ご本殿裏から。

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▶稲荷社。

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▶株式会社クボタの献灯。鳥居もクボタの奉納でした。クボタ創業者久保田権四郎氏の今宮戎神社への崇敬が非常に篤かったようです。
グボタさんは創業の地、大阪市浪速区敷津東に今も本社を構えておられます。

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▶今宮戎神社御朱印。前に参拝したときにいただいたもので日付が違います。

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2008年6月13日 (金)

大阪天満宮(H20.6.12)

●大阪天満宮(大阪市北区天神橋2丁目1番8号)
大阪天満宮の創始(御鎮座)は、平安時代中期にさかのぼります。菅原道真公は、延喜元年(901年1月25日)、政治の上で敵対視されていた藤原時平の讒言により昌泰4年(901年)九州太宰府の太宰権帥(だざいごんのそち)に左遷されることになりました。菅公は、摂津中島の大将軍社に参詣した後、太宰府に向いましたが、2年後にわずか59歳でその生涯をとじました。(延喜3年/903年2月25日)その約50年後、天暦3年(949年)のある夜、大将軍社の前に突然七本の松が生え、夜毎にその梢(こずえ)は、金色の霊光を放ったと言われます。この不思議な出来事を聞いた村上天皇は、これを菅公に縁の奇端として、同地に勅命を以て鎮座されました。

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▶正門。

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▶正門の大注連縄。

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▶蛭子門。

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▶正門を入った所すぐに鎮座の黒土社(御井社)。

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▶拝殿。

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▶ご本殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶ご社殿西側の登龍門。

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▶ご社殿東側の登龍門。

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▶ご本殿裏側。

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▶大将軍社。菅原道真公が大宰府への途中、立ち寄り参拝したのが、この大将軍社。その後、村上天皇の勅命により、当地は菅原道真を主神とする天満宮となったため、大将軍社は、その後摂社として祀られるようになりましたが、現在でも、元日の歳旦祭の前に大将軍社にて「拂暁祭(ふつぎょうさい)」というお祭りを行い、神事の中で「租(そ)」と言ういわゆる借地料をお納めする習わしになっています。

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▶神明社。

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▶右が白太夫社。左が老松社紅梅殿。

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▶老松神社。

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▶蛭子遷殿。平成19年に60年ぶりに復活したえべっさんのときはこちらに殿にお参りをしました。普段はえべっさんはいらっしゃらないようです。

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▶十二社。

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▶八坂社。

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▶妻社。

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▶白米稲荷社。

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▶白米稲荷社ご社殿内にある狐・天狗の爪研ぎ石。

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▶稲荷奥宮。

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▶天満弁財天様・鶴吉大明神様・鶴姫大明神様。

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▶住吉社。

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▶吉備社。

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▶八幡社。

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▶松尾社。

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▶霊符社。

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▶霊符社拝殿からご本殿。

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▶祖霊社と星合の池・星合の橋。

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▶大阪天満宮には碑や塚が多くありました。

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▶大阪天満宮御朱印。前に参拝したときに頂いたもので、日付が違います。

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2008年6月12日 (木)

西宮神社から円満寺・西宮成田山(H20.6.12)

●西宮神社(兵庫県西宮市社家町一番十七号)
西宮神社は地元ではむしろ「えびす神社」の名前で通っています。全国に「えびす神社」は3500社以上も存在するといわれ、その「えべっさん」の総本社が、兵庫県西宮市に位置する西宮神社。えびす神社の総本社として古くから崇敬されている西宮神社は、銘酒の産地として名高い灘五郷・西宮の中央に鎮座し平安時代には、すでに高倉上皇の幣帛を賜った記録が残されている。
特に室町時代以降は、『えびす・だいこく福の神』といわれるように、えびす様が福の神の代表となり、又、西宮神社がその信仰の本拠として人形操や謡曲、狂言などの芸能をとおして、全国津々浦々にまでそのご神徳が広まっていきました。戦国時代には、後奈良天皇のご寄進をうけたのをはじめ、桃山時代には豊臣秀頼、江戸時代には四代将軍徳川家綱によりご造営がなされました。また徳川幕府からは、御神像札の版権を得て、独占的に全国に配布、ますます社勢が盛大となっていきました。
明治以降は、交通機関の発達に伴って参拝者も飛躍的に増加し、一月九・十・十一日の十日えびす大祭には、三日間で全国から百万人を越す参拝者で賑わいます。同市内「廣田神社」と共に阪神タイガース毎年恒例の必勝祈願等でも有名です。

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▶表大門。慶長9年(1604)豊臣秀頼が寄進したと伝えられる門、左右の築地塀と共に重要文化財になっています。

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▶表大門の前に鎮座の梅宮神社。

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▶重要文化財 大練塀。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶児社。

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▶庭津火神社。ご社殿がなく塚の形をした封土を拝する古い形を残した神社です。

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▶祓所。

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▶御神木なのでしょうか?お米がお供えしてありました。

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▶火産霊神社。

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▶百太夫神社。

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▶六甲山神社。

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▶大国主西神社。

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▶神明神社。稲荷神も合祀されています。

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▶松尾神社。

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▶ご社殿の前の木。幹から草が生えています。

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▶宇賀魂神社。

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▶伊勢神宮遥拝所。

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▶市杵島神社。

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▶市杵島神社を後ろから。

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▶1696年(元禄9年)に神池の石垣を寄進されたのを記念に彫られた石碑。

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▶神池には亀が多くいました。

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▶南宮神社。ここは廣田神社の摂社になります。

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▶沖恵美酒神社。オキノエビスジンジャと読みます。

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▶沖恵美酒神社ご本殿。

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▶南門。

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▶西宮神社御朱印。前に参拝したときに頂いたもので日付が違います。


●円満寺・西宮成田山(兵庫県西宮市社家町1-36)
円満寺は高野山真言宗・別格本山、山号は医王山。摂津国八十八箇所79番札所であり、本尊は薬師如来が祀られています。インドより来日し、播磨国一帯の山岳などに数多くの寺院を開いたとされる法道仙人が大化年間(645~9年)に開創されたと伝わる。また、一説には828年(天長5年)淳和天皇の后であった如意尼(摂津88ヶ所75番札所の神呪寺を開基)が開いたとも伝わる。古は西宮市鷲林寺町にある鷲林寺が当山の原点で、源平合戦以降の幾多の戦火で荒廃。戦国時代の織田信長が荒木村重を攻めた時には堂宇のことごとくが焼失したため、1577年(天正5年)ここに遷したもので、「今里鷲林寺」とも呼ばれ、現在に至っている。その後、幾度かの栄枯盛衰があり、昭和20年8月の空襲で諸堂悉く灰燼に帰し、その際、所蔵していた古記録も焼失して、詳しい歴史が解らなくなってしまった。戦後全て堂宇が再建されたが、阪神大震災でも西宮成田山の堂宇、納骨堂、庫裡が全壊した。
同じ敷地内に西宮成田山があり、不動明王が祀られております。不動明王は大阪成田山不動尊と同じく成田山新勝寺(千葉県)より勧請し、西宮成田山と称されています。

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▶西宮神社のすぐとなりにあります。

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▶円満寺と西宮成田山は門が別々になっていますが、境内は一緒です。

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▶円満寺本堂。ご本尊は薬師如来様。

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▶弘法大師様。

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▶子守地蔵尊。

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▶同じ敷地内に西宮成田山の堂宇があり、不動明王様が祀られている。

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▶神変大菩薩様。

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▶稲荷社と思われますが、祀られている神様はわかりません。表示もありませんでした。

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▶西宮成田山御朱印。

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2008年6月 9日 (月)

広田神社(H20.6.9)

●広田神社(西宮市大社町7番7号)
廣田神社は、神功皇后摂政元年(201)、国難打破の道を教え、皇子(第15代應神天皇)のご懐妊を告げ、安産を守り、軍船の先鋒となり導き、建国初の海外遠征に大勝利を授けられた天照皇大神荒御魂の御神誨により、御凱旋の帰途、神功皇后により武庫の地・廣田の国(芦屋・西宮から 尼崎西部)に御創建されたことが、我が国最古の国史書「日本書紀」に記されている兵庫県第一の古社です。延喜式官幣名神大社、勅祭22社の1社。源頼朝は(1184)淡路広田荘を寄進、豊臣秀頼は(1604)大規模な改築を末社・戎社を含め行い、徳川吉宗は現今の地に遷し改修。
阪神タイガースが球団創立時からの毎年優勝祈願にお参りすることでも知られた神社です。

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▶一の鳥居。この鳥居だけが木製です。

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▶長〜い参道。

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▶手水舎。比較的新しい。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶第一脇殿の住吉大神様と第二脇殿の八幡大神様

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▶第三脇殿の諏訪健御名方大神様と第四脇殿の高皇産大神様。

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▶松尾神社。

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▶春日神社、子安神社、地神社、八坂神社、稲荷神社。

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▶伊和志豆神社。

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▶齋殿神社。

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▶鎮守の森。鎮守の森の中に遊歩道があります。

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▶道は整備されていますが、案内板が全くありませんので、どこを歩いているか解らなくなります。広田神社に参拝したほとんどの方はこの遊歩道があることを知らないのではないかと思います。私も小学生の時に遊んだ記憶はありますが、その後、約30年ぶりです。

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▶ご神水。

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▶急に激しい雨が降ってきました。

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▶ご神岩なのでしょうか?表示等がないので、云われはわかりませんでした。

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▶願頑祷ってなんなのでしょうか?これも説明がなかったので、云われは解りませんでした。

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▶私が知る限り、広田神社境内で唯一しめ縄で祀られた御神木。私も何度も広田神社にはお参りしておりますが、初めて見ました。しかも、この松の木以外にしめ縄で祀られている木は1本もありませんでした。


●広田神社境外社 若宮神社(高座神社)

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▶小学生の頃、夏休みに地区のボランティア活動かなにかで境内の草むしりや掃除を小学生と父兄も一緒でみんなでした記憶があります。当時はここを公園と思っていました。30年近く前のことです。

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▶小学生の時は若宮神社を隣の公園と一緒と思っていました。当時は社があることも気付かずにいました。というより全く記憶がありません。

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●広田神社境外社 武甕槌神社

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▶若宮神社の向かい約15Mぐらいの場所に鎮座されています。昭和52年再建とのことですが、この武甕槌神社と若宮神社の近くに30年近く住んでおりましたが、武甕槌神社にお参りができるとは当時は知りませんでした。祠があるだけとばかり思っていました。

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▶ここから入れるんですね。

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▶鎮守の森?を通って、階段を上ると社があります。

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▶この武甕槌神社の社のちょうど向こう側が若宮神社になります。

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▶広田神社御朱印。前に参拝したときに頂いたもので、日付が違います。

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▶札場筋にある明治31年に建てられた道標。

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サムハラ神社(H20.6.6)

●サムハラ神社(大阪市西区立売堀2−5−26)
本日、たまたま西大橋の駅の近くで待ち合わせがあり、地図を見ていると地図上にサムハラ神社という鳥居マークを発見。今までカタカナの名前の神社は見たことも聞いたことがないし、神社の名前を騙った何かの施設かなと思いながらも気になったのでちょっとググってみました。

「サムハラ」は、パソコンでは変換できません。漢字っぽい4文字で示され、文字そのものに「力」が宿り、古くからお守りとして親しまれてきたのだそうです。

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▶これでサムハラと読むのです。

サムハラという言葉自体もその由来は相当古く、「天御中主大神」、「高産巣日大神」、「神産巣日大神」を総称して「サムハラの大神」と称え奉られています
天之御中主神(アマノミナカヌシノカミ)、高御産巣日神(タカミムスビノカミ)、神産巣日神(カミムスビノカミ)の造化三柱(ぞうかのさんしん)とも呼ばれる神々が祀られているサムハラ神社。
天之御中主神が「造化三神」の、そのトップに立つ神です。 現在の神道でも天之御中主神は、最高神として位置づけられているようです。
その昔、大自然の驚異が神の御技でしかなかった頃。古代の人々はサムハラと呼ばれる原初三柱の神様を考え出したらしいです。この三柱を表す文字が「サムハラ」、どうやらこれが神道の始まりのようなものとのことです。
もともとは天照大御神の神代の時代に、御祓いの祝詞として発祥した言葉で、外部から侵入する「ツミ、トガ、ケガレ」を避け、開運と成功を祈る祝詞らしいです。
「最高の神は?」 との問いに、多くの人は「天照大御神」と答えるでしょう。 しかし、天照大御神が現れるのは、造化三神よりもずっとずっと後のことになります。
このサムハラ神社は、たまよけ神社とも呼ばれていて、その力により大阪府警第一方面機動警ら隊が横にあるんだとか・・・・

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▶サムハラ神社北門

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▶小さい神社ですが、奥宮が美作(岡山県)にあるとは、非常にスケールの大きな神社です。

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▶小さい神社でしたけど、寄進者の名を見ると凄いです。正面にまわってみると、誰でも知ってるような有名企業やある首相経験者の名前がずらりありました。

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▶ご本殿。

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2008年6月 3日 (火)

生田神社(H20.6.3)

●生田神社(神戸市中央区下山手通1丁目2-1)

阪急三宮駅のそばにある。生田ロードを北上していくと、東急ハンズを越えて、真っ赤な鳥居が見えます。
生田神社に祀られている神様は稚日女尊(わかひるめのみこと)といい、稚く瑞々しい日の女神様であり、伊勢神宮にまつられている天照皇大神の御幼名とも伝えられているそうです。生田神社の歴史は古く、西暦201年に神功皇后が三韓外征の帰途、神戸港でお船が進まなくなったため神占を行ったところ、稚日女尊が現れ「われは活田長峡国におらむと海上五十狭茅に命じて生田の地に祭らしめ。」と日本書紀に記されている。
平成7年1月17日の阪神大震災で倒壊した社殿も今は復旧しています。

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▶楼門。

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▶拝殿。

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▶拝殿からご本殿。

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▶ご本殿右側の住吉神社と八幡神社。

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▶ご本殿左側の諏訪神社と日吉神社。

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▶蛭子神社

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▶戸隠神社。

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▶稲荷神社。

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▶人丸社、雷大臣社、塞神社。

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▶御神木。

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▶包丁塚。

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▶紀香効果のせいでしょうか?絵馬もハート型が多いです。

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▶折鳥居と礎石。

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▶梶原の井。

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▶大海神社。

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▶松尾神社。

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▶松尾神社の祠で寝ている大胆なネコ。

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▶生田の森の御神木。後ろに見えるのは生田森坐社?。生田の森は普段は入れません。

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▶陣内智則さんと藤原紀香さんの挙式で新名所になったが市杵島神社。
紀香さんが式当日一番に弁天さんにお参りしたいと参拝されたそうです。それまでは神社で遊ぶ子供達が池に落ちる危険があったため、鉄柵で囲まれて、一般参拝客はほとんど存在さえ知らなかった場所です。紀香さんが式当日に参拝した事から一般参拝客が出入りできるよう工事をはじまり、今ではだれでも参拝することができます。

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▶生田弁財天 市杵島神社。

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▶生田神社御朱印。

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伊和神社(H20.5.31)

●伊和神社(兵庫県宍粟市一宮町須行名407)
播磨国一の宮で、延喜式内社(名神大社)、旧社格は国幣中社。うっそうとした木々に囲まれた古社。旧因幡街道のほぼ中央に位置する伊和神社は、祭神は、大国主神(おおくにぬしのかみ)(大己貴神)で、農業・工業・商業等産業の神、縁結びの神、病気平癒の神として多くの人々の信仰を集めています。姫路駅からバスでいきました。途中一度乗り換え、とにかく遠かったです。

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▶入口に鳥居は立っておらず、参道を歩くと、途中に鳥居。木々が立派で神域に入ったという印象をうけます。

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▶さらに歩くと随神門があります。

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▶社殿は北向きです。一夜のうちに杉・桧等が群生して多くの鶴が舞っており、大きな白鶴が二羽、石上に北向きに眠っていたのでそのところに社殿を造営したという。その石を鶴石といい、社殿が北向きであるのもそのためという。

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▶拝殿 横から。

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▶幣殿 横から。

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▶ご本殿 横から。

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▶播磨十六郡神社 西八郡。

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▶播磨十六郡神社 東八郡。

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▶御霊殿。

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▶御霊殿の横からも参道があります。

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▶五柱社。

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▶社務所横の御神木。

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▶社殿右側の御神木。

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▶その御神木の横にこのような標石があります。

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▶階段を下ると鳥居があります。

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▶鳥居の奥に弁天様が祀られています。

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▶市杵島姫神社。

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▶伊和神社御朱印。

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