●出雲大社(いずもおおやしろ)(島根県出雲市大社町杵築東195)
一般には「いずもたいしゃ」と呼ばれていますが、正式名称は「いずもおおやしろ」と読みます。大社の総称社として知られる旧官幣大社。『延書式』に名神大社として唯一大社に列し、出雲国一の宮として朝廷の崇敬が厚く、神話伝承や過去の記録に残る出雲大社は、歴史上、常に特別の神社として位置づけられ、その時代の為政者(後醍醐天皇、豊臣家、毛利家、松平家等)より社領の寄進や祈願等、加護と信仰を受けてきました。
縁結びの神様「大国主大神(おおくにぬしのみこと)」で有名な出雲大社。毎年神在月の頃になると、日本各地の神々が出雲大社に集まり、男女の縁だけでなく、その他の色々な”縁”を結ぶ「神議り(かむばかり・会議)」を行うそうです。そのため、出雲地方では「神無月」のことを「神在月」といいます。毎年多くの参拝客が訪れ、縁結びの地として人気のスポットです。
創祀は『古事記』『日本書紀』などによると、大国主大神は素箋鳴尊の子(6世の孫とも)で、葦原中国の国造りにあたり、やがて天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)の降臨のとき、国土を譲って出雲国多芸志の浜に身を隠した。大国主大神の国譲りを喜んだ天照大神は、天日隅宮を築き、その子の天穂日命を奉仕させたのが起こりといいます。いまも天穂日命を祖とする出雲国造家が、連綿として祭祀を継承しています。
「古事記」には大国主命の国譲り(神楽の映像)の項に「私の住む所として天子が住まわれるような壮大な宮殿を造ってくれるのなら、国を譲り、世の片隅で静かに暮らしましょう」ということで造営されたと記されています。
「日本書紀」には「汝が祭祀をつかさどらん者は天穂日命(あめのほひのみこと=天照大神の第二子)これなり」とあり、この天穂日命の子孫が出雲国造で、現在まで継承されているといわれています。
御本殿は「大社造り」と呼ばれる日本最古の神社建築様式で建てられており、国宝に指定されている大変貴重なものです。高さは約24メートルあり、日本書紀(720年)や出雲国風土記(733年)にも記述があります。社伝によると、太古の出雲大社の本殿の高さは97m、中古には現在の2倍にあたる48mあったと言われています。平成12年には、その社伝を裏付けるかのような、直径3mもの巨大な柱根「宇豆柱(うずばしら)」が境内で発見されました。神楽殿には、日本一の「大注連縄」(重さ約5t)があり、出雲大社の参道入口から南へ600mほど下ると、日本一の大鳥居があります。八足門(やつあしもん)や楼門など21棟と銅鳥居1基が国の重要文化財。

▶一畑電鉄出雲大社前駅



▶出雲大社の駅とは思えない大胆なデザインなのに、異国情緒あるレトロ感がいい感じです。


▶日本一の大鳥居。一の鳥居になります

▶参道にある竹内まりやさんの実家の竹野屋さん

▶二の鳥居

▶緩やかな下り坂の参道

▶祓社(はらいのやしろ)参拝する人をまずここで祓い清めます


▶鳥居をくぐって一歩神域に足を踏み入れると、両脇から太い枝を張った樹齢何百年という老松の参道が長々と続きます。直立している幹などほとんどなく、幾分傾き加減の巨木が立ち並ぶ参道も趣があっていい感じです。松並木が終わるあたりで左右を見ると銅像が見えます

▶大国主神と白兎

▶大国主大神が幸魂(さきみたま) ・ 奇魂(くしみたま) を拝戴する場面「ムスビの御神像」。これが縁結びの由縁です


▶皇后陛下の出雲大社に詣でての石碑「国譲り 祀られましし 大神の 奇しき御業を 偲びて止まず」
平成15年10月3日、天皇陛下・皇后陛下には出雲大社を御親拝あそばされ、皇后陛下が「出雲大社に詣でて」と御題されて「国譲り祀られましし大神の 奇しき御業を偲びて止まず」との御歌を賜われました。

▶手水舎

▶三の鳥居。寛文6年(1666)に毛利輝元の孫にあたる綱広が寄進した銅鳥居。漢文で銘が刻まれていて、その中に「・・・素戔嗚尊は雲陽の大社の神なり・・・」とあり、祭神が素戔嗚尊と明言している不思議な一文で、出雲神話では、素戔嗚尊の神威力が高く受けとられていたことや大国主神が素戔嗚尊の直系の子孫にあたることから、祭神が混同された時代もあったのかも知れません

▶昭和34年に再建された桧造りの美しい拝殿。大遷宮中の今は御仮殿になります。
出雲大社は「平成の大遷宮」の真っ最中。「大遷宮」とは本殿の造営、修理に伴い、修復が完了するまで大国主の大神様に仮の本殿となる仮殿に移っていただくことで、平成の大遷宮の場合は
・仮のお住いにお移りになる「仮殿遷座祭」 =平成20年4月20日
・仮のお住いから修復された本殿にお戻りになる「本殿遷座祭」=平成25年5月
出雲大社の大遷宮は厳密に何年毎というわけではなく、だいたい60年~70年おきに行われてきました

▶出雲大社では、二拝四拍手一拝の作法で拝礼します。ほとんどの神社では二拍手が決まりのようなものですが、ここでは4回拍手します。社頭で2回おじぎをして、4回柏手を打ち、さらに一回おじぎをするのが出雲の作法です

▶瑞垣の門・八足門。国宝の本殿は、拝殿の奥に瑞垣と玉垣に囲まれていて建っている。瑞垣の門を八足門という。普通は、ここから本殿を拝します。





▶修復中のご本殿。昔の大遷宮は機械もなくどうやっていたのでしょうか?



▶十九社(じゅうくしゃ)
本社の荒垣内、御本殿の東西に相対して鎮座で、それぞれ十九の扉がついています。出雲大社神在祭の期間、全国の神々がお泊りになる社です。旧暦10月10日の夕刻、出雲大社西方の稲佐の浜で全国の神々をお迎えして(神迎祭)から翌日11日から17日までの1週間(神在祭)は、この社の全ての扉が開かれ、おまつりがおこなわれます。今の御社殿は延享5年(1748)2月の御造替です。
我が国では、旧暦の10月を通常「神無月(かんなづき)」と呼んでいます。10月10日に全国の神々が出雲大社に集られ、10月11日から17日までいろいろな神議りを行わうため、出雲以外では神々が不在になるためで、出雲ではこの月を「神在月(かみありつき)」と呼びます。余談ですが、私のペンネームもこの神在月からいただきました

▶摂社 氏社(うじのやしろ)本社の荒垣内、御本殿の西方に東面して鎮座する南北に並んだ二社です。北側の御社には天穂日命(あまほひのみこと)が祀られています。天穂日命は大国主神に国を譲るように朝廷から差し向けられた使者でしたが、大国主神に私淑(手本として慕い、尊敬し学ぶこと)してしまった神です。南側の御社には国造出雲臣宮向宿祢命(いずものおおみやむきのすくねのみこと)が祀られています。この国造は天穂日命の17世の神裔(孫)で、この時はじめて「出雲臣」の姓を賜ったといわれています。今の御社殿はいずれも延享5年(1748)5月の御造替です

▶素鵞社(そがのやしろ)遙拝所
本社の荒垣内、御本殿の後、北の八雲山の麓に南面して鎮座で、御祭神は素箋鳴尊です。天照大神の弟神にあたられます。やがて出雲国に天降され、肥河上において八岐大蛇を退治されて人々をお助けになり、次いで奇稲田姫を御妻として大国主命をお生みになられました。その後大神に国づくりの大任をお授けになったことは、人々によく知られるところです。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。「平成の大遷宮」による瑞垣内諸社殿修理に伴い、遙拝所が設けられていました

▶釜社(かまのやしろ)
本社の荒垣内、御本殿の東方に西面して鎮座。御祭神は宇迦之魂神です。この神様は、須佐之男命の孫にあたる神様で、食物を守る神様です。このあたり一帯の北山山地を宇迦山とも呼びますし、「宇迦」とは穀物を意味する古語といわれております。今の御社殿は延享5年(1748)7月の御造替です。

▶神楽殿
出雲大社では拝殿と神楽殿に巨大な注連縄の張られています。しかし、その張り方が普通の神社とはまったく逆になっています。日本では、古くから左(向かって右)の方が上位で尊いとしてきた。神社でも同じで、社殿から見て左側、すなわち参拝者から見て右側が上位であります。このため、一般の神社の注連縄を見ると、参拝者から見て向かって右側から綯い始め、向かって左側で綯い終わる。だが、出雲大社では正反対で、注連縄の綯い始めは向かって左となっている。作家の伊沢元彦氏は、その理由を「出雲大社は大怨霊オオクニヌシノカミを封じ込めた神殿である」ためとしています

▶神楽殿内部

▶日章旗。この写真では全然大きく感じませんが、出雲大社の日の丸は、日本一大きい国旗なのです。国旗掲揚台の高さ47m。国旗の大きさは畳75枚分、重さは約50kgです。NHKの一日の放送終了時に映される国旗はここのを使っています。

▶秋篠宮悠仁親王殿下ご誕生記念

▶ご祭神不明

▶神楽殿の裏。神楽殿のご本殿でしょうか?

▶神楽殿の裏の鎮守社・天満宮の垣内の三社殿

▶鎮守社・天満宮の垣内の二社殿

▶鎮守社・天満宮

▶境外摂社 神魂伊能知奴志神社(命主社)。神産巣日神をお祀りしています。
神産巣日神は、まだ伊邪那岐神と伊邪那美神が生まれるよりも前、高天原に最初に成った三柱の神のうちの一柱です。大国主神の危機を幾度も救い、国造りの支えとなりました。

▶神魂伊能知奴志神社(命主社)の本殿のうしろから江戸時代初期に四本の青銅製利器と曲玉が出土したとされ、その場所には真名井遺跡との標識が立っていました。


▶八大荒神社(仮の宮荒神社)
この神社は出雲大社の大鳥居前から日本海に抜ける29号線の北にある、奉納山公園の山麓に鎮座しています。
社号標には「仮の宮荒神社」とありましたが、鳥居と拝殿の額に「八大荒神社」とありました。この神社そのものについては何も説明がなかったので創建などについては分かりません。只、仮の宮は地区名であり、荒神様なので御祭神は素戔嗚命を祀っているものと思われます。奉納山は出雲大社へ奉納する経文を納めた所。

▶境外摂社 大歳社

▶国譲りにちなむ屏風岩。大国主神と建御雷神はこの岩の陰で国譲りについての話をしました


▶境外摂社 上の宮(仮宮)。神在月に境内で「神在祭」が行われます。素戔嗚尊・八百万神

▶境外末社 下の宮。天照大御神


▶稲佐の浜と弁天島
国譲りの舞台となった浜です。建御雷神は十掬の剣を波頭に突き刺して、国を譲るか否かを問いました。また、旧暦10月10日の「神迎神事」はここで行われます。
島は弁天島です。出雲国風土記の国引き神話で、八束水臣津野命が出雲の国を大きくしようと他国の余った島を引っ張るのに使った綱が、弁天島になったとされています。引っ張ってきて繋ぎ合わせたのが杵築御埼(きねづきのみさき/現在の日御碕・ひのみさき)等です。

▶北島国造館
出雲大社の境内を抜け、橋を渡ると北島国造館です。何故、同じ出雲大社にありながら、独立しているのだろうかと不思議でした。出雲大社の宮司の千家家と北島家はかっては同じ兄弟から別れ、同格、そして今は別の管理下であることを知りました。こじんまりとした気持の良い国造北島館境内です。北島国造館は,全国の出雲教(出雲大社,何々の国支社)の総本山と言うことらしいです。


▶御神殿

▶御三社 左より稲荷社、天穂日命社、荒神社

▶天神社、心字池中之島に鎮座。後ろは亀尾の滝と呼ばれています。祭神 少名毘古那神

▶天満宮

▶相生の松

▶JR大社駅(廃駅)。30年近く前、小学生の頃初めて友人と旅行したのが出雲大社で、この大社駅に夜行列車から降りたのをはっきりと覚えています。当時はまたJRではなく国鉄でした。30年近くぶりでホント懐かしく、このように当時のまま保存されているのを非常にうれしく感激しました。
このJR大社駅が開業したのは明治45年6月で、駅舎は大正13年の改築です。平成2年3月31日には大社線が廃止となったため、大社駅も共に廃駅となりました。



▶鉄道の栄枯盛衰を象徴するような駅です。神社様式のなんて美しい駅舎なんだろうと見とれてしまいました。出雲大社を模したつくりです。平成16年に国の重要文化財に指定されました

▶駅ではめずらしい出雲大社の大祭に遣わされるご皇室の勅使をもてなすための貴賓室や駅名標、出雲大社の大鳥居が見えるホームなどが当時のままに残されています。さらに、旧事務室は喫茶店として使われており、大正ロマンが味わえ往時をしのぶ事が出来ます



▶昔は大勢の駅員さんが働いていた事でしょう。ちなみに全盛期(昭和47年)には一日の乗降客4000人、発着荷物180トンを誇りました

▶展示されている機関車(D51型774号機)は昭和49年11月30日まで走っていました

▶全盛期には出雲大社参詣用の団体専用列車を迎え入れていただけでなく、東京から大社まで急行が走り、大阪からは昭和60年まで急行「だいせん」が大社まで乗り入れていたのです。『お召し列車』の送迎、急行いずも号(大社~東京)・急行だいせん(大社~京都)などの直通運転をはじめ、戦後の最盛期には年間の団体臨時列車は280本を数えました。

▶御朱印